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しばらく、自分の顔を見ていない。
毎朝肌の状態をチェックもするし、歯を磨いて頭髪を整え、スタイリングも常に完璧にしている。
当たり障りのない日常を送るための、最低限の儀式。身だしなみという名の、ただのドレスアップだ。
表情を作ることなんて、何年もしていない。
髭を剃るため、髪型を整えるためだけに見つめている鏡。そこに写っているのは、ただの能面だった。
幼い頃、家族や家に仕える人間は、俺が笑えば笑い、泣いている時は悲しい顔をして慰めてくれた。
それは俺の感情に基づくことはなく、それぞれが俺に与えた行動の結果なのだと気が付いたのは、ずいぶんと成長してからだった。与えられたモノ、金、人生。それらを受け入れ、箱庭の中で笑って生きる。それが俺の人生だと思っていたし、みんなを悲しませないための手段だと信じていた。
そんな生き方しか、知らなかったから。
「ありがとう、父さん」
そういえば、父は笑う。
「嬉しいよ、兄さん」
そういえば、兄たちも笑う。
俺が笑顔でいること。その笑顔を見て、みんなが笑う。けれど、笑顔の奥から俺の自我が出た途端、みんなの顔は曇りだす。
「危険なことはやめなさい。そんなことしなくたって生きていける」
俺がやりたいこと、欲しいもの。
「虎於くんは、もっとキラキラしたものや世界が似合うよ」
感情を出すと、悲しそうに歪む顔。
笑顔の時だけ鏡写しになるそれは、決められたフィルムを流すための映写機のようだった。
認知される俺の顔は決まりきっている。ならば、気に入られるための、求められる極上の俺でいるためだけの最低限の手入れだけで、表情なんて作る必要はない。
求められた顔をしているだけで、みんなが笑ってくれるのだから。
何も写さない、色のない世界。
そこに光が、色が差し込んだ。
「トラ! お前また遅刻しやがったな」
トウマが怒る。父さんに怒られた時とは違う、悲しい顔をしている。
「虎於、ヘバってんじゃねえ。もっとやれんだろ、パフォーマーの肩書きが聞いて呆れるな」
悠が吠える。キツいことをしなくていいと言う家族とは違う。俺の、グループの成功を、スキルアップを本気で信じている、真剣な顔だ。
「御堂さん、喉の調子はいかがですか。オススメののど飴があるので差し上げますよ」
巳波が笑う。斜に構えて素直な態度ではないけれど、声の伸びが良くない俺にさりげなく差し出される救いの手。心配そうに見上げてくる瞳は、悲しげに揺れていた。
「御堂さん、貴方のやりたいことを、応援したいんです」
あのひとは、あいつらは。俺が笑い、泣き、表情を変えるたびに、それに相応しい顔で、声で、応えてくれる。
笑った顔も、泣いている顔も、悲しい瞳も、怒りの眼差しも。
「すげえなトラ! ドラマ決まったんだってな、ちゃんと監督さんに挨拶してこいよ!」
「やるじゃん。オレたちの歌、虎於のアクロバットでさらに盛り上げてよ」
「御堂さん、ブレスと歌のタイミング、完璧でしたね。ライブで、私たちがパフォーマンスだけではないということを見せつけてやりましょう」
辛くても、苦しくても。
こいつらとなら、乗り越えられる。
「……っはは…! 任せとけ」
楽屋で鏡の前に座る。ヘアメイクを終えて見つめた正面には、一人の男が写っていた。
不適な笑みで、こちらを見つめてくる男。なあアンタ、覚悟は出来てるか。もっとやれんだろ、御堂虎於。
「ありがとうございました」
「はい! 撮影頑張ってくださいね」
スタッフに礼を告げ、立ち上がる。姿見に向かい、全身をくまなく見つめる。足元から髪の先まで。
メイクアップを終えた顔は、笑っていた。あの頃の能面のような、表情のない男はもう、いない。
感情を写して、呼応してくれる仲間がいるから。
衣装のジャケットを羽織り、鏡の前でくるりと一回り。
今日も誰かを笑顔にするために、俺は笑おう。様子を伺い、気を損ねない言動を探るためではない。
心から大切に思う、仲間のために。共に笑い、高みを目指すために。
