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ピピピピ、と鳴る目覚ましを止めて、私はのろのろとベッドの上で上体を起こした。身体は丈夫な方だが、朝の弱さは何年この仕事を続けても変わらない。満足に開かない目のせいであやふやな視界のまま、スリッパに足を入れて部屋を出る。新しい寮に移って部屋が広くなったのを機にロフトベッドを処分したのは賢明な選択だったようだ。ロフトベッドの機能性も気に入ってはいたのだけれど、足を踏み外さないよう梯子を降りるのは、覚醒しきらない日にはなかなか難儀だった。
のろのろと廊下を歩いて洗面所に向かう。新小鳥遊寮はセト殿下のおかげでどこもかしこも贅沢なつくりになっているが、なかでもありがたいのがこの洗面所の広さだ。七人全員が同時に慌ただしく身支度を始めても対応できるよう、流し台とパウダーコーナーが広々と確保されている。
タオルと自分の洗顔料を取り、ぬるま湯で濡らした肌にムース状の泡を顔に広げていると、背後に近づいてくる人の気配を感じた。早朝にもかかわらずしっかりとした足音、少し小さめの歩幅。兄さんだ。
「おはようございます、兄さん」
最後に冷たい水で泡を流すと、ようやく意識がしゃっきりしてきた。顔を上げ、ふかふかのタオルに水分を吸わせながら、鏡越しに朝の挨拶をする。
「おう、おはよう一織!」
私とは正反対で朝に強い兄さんは快活に笑うと、私と同じようにタオルと洗顔料を手に取った。一歩脇に避けようとして、その必要はないことに思い至る。先程もこの洗面台の広さに感謝したばかりなのに、しみついた癖というのはなかなか抜けないものだ。
「洗面所広くなって助かるよなあ、ここ。前の寮は戦争だったもん」
兄さんはそう言いながら手早く前髪を上げ、顔を洗い始める。その様子を横目に、私は洗顔料を棚に戻すと化粧水とコットンを手に取った。水音があると聞こえにくいだろうから、兄さんの手がコックを下げるのを待って言葉を返す。
「同感です。特に四葉さんと六弥さんがかち合うと最悪でした」
「ほんとほんと。ま、あれでもうちよりは全然マシだったけどさ。一織が高学年くらいから、並ぶの無理だったもんな」
すっきり洗い上がった顔をタオルで拭いながら、兄さんが肩を竦める。ごく他愛ない、あたりまえの会話だ。わかっているのに、ほんの半呼吸、返答が遅れた。
「……そうでしたね」
兄さんの大きな目がきょろりと動いて、鏡越しに私の表情を伺う。――いや。私が過敏になっているから、兄さんの表情がそういうふうに見えるだけなのかもしれない。
新しい寮の、広い洗面台の、大きな鏡の中で……。
化粧水をひたしたコットンで肌を整える私と、タオルを洗いたての頬に当てた兄さんが並んでいる。
小柄で可愛らしい顔立ちの兄さんと、平均より長身で、大人びて整ったと評価されがちな容貌の私。
小鳥遊事務所に入るまで私達が住んでいたのは、ごく一般的な個人宅だ。洗面所も標準的なサイズで、小さな子供ならまだしも、思春期以降の少年が二人で並んで使える規格にはなっていない。ずっとアイドルを目指していた兄さんは、中学生に上がった頃には肌の手入れや髪型に手をかけるようになっていたから、弟の私が周囲をちょろちょろするのは邪魔だった。だから……。
だから、と、あの頃の私は自分に言い聞かせていた。
洗面所にいる兄さんの隣に、私が立とうとするたび。いや、後ろを通りがかる私を、鏡の中に見つけるだけでも。兄さんが不快そうに顔を歪めるのは、うちの洗面所が狭すぎて、二人で並べる広さはないからなのだ、と。
言い聞かせ――けれど、本当はわかっていた。兄さんに並び、追い越していく背丈。大人びていく顔立ち。望みもしない私に、与えられてしまったもの。兄さんが手にしていたら、兄さんの夢を叶える武器になったであろうもの。
あの頃の兄さんは、それを鏡の中に見つけるのが――そんな私と鏡の中で並ぶのが、嫌いだった。
昔の話だ。とっくに過ぎ去った、ずっと昔の。わかっているのに、未だにほんの時折、身体が竦む。
「――――」
兄さんがひとつ瞬きをして、タオルを置いた。スキンケアの一式を手に取りながら、自然な仕草で半歩、私に身体を寄せる。
「だからさ、なんか最近、ちょっと感慨深いよ。おまえとここで並んで、一緒に顔洗ったりしてんの」
「……鏡の前に並ぶのなら、事務所に入ってから散々してきたじゃないですか」
「そうだけどさぁ、何か種類が違うんだよなー」
兄さんが、鏡の中の私から視線を外す。鏡でなく、隣に立つ私を直接その目で見上げて、ニッと笑った。
「なんていうか、仕事じゃなくて生活? 地続きで、だから余計にぐっと来るっていうかさ。昔、一緒に歯磨いてたときは、あんなにちっこかったのに、すげえでっかくなったなーとか、やっぱ格好いいよなとか、朝弱いのに毎朝ちゃんとしてて偉いなあとか、オレの弟かわいいなあとかさ!」
「……、兄さん……」
「んー?」
鼻の奥がつんと痛んだ。ごまかすように、使い終えたコットンを小さく畳んで、備え付けのダストボックスに放り込む。
それから改めて、隣に立つひとに視線を合わせた。
私より小さく、可愛らしくて、だけど、太陽みたいに大きく、エネルギッシュで、とんでもなく格好いい、私達のムードメーカーで、私の自慢の兄さん。アイドルの、和泉三月。
抱き続けた夢を叶えたその人と、メンバーとして共同生活を送る寮の洗面所の鏡の前で、並んで立っている。
「……そうですね。感慨深いです」
「だよなー」
「それに、兄さんは朝から元気なので、こうして並んでいるだけでエネルギーが貰える気がします」
「おー、好きなだけ持ってけ!」
誇らしげに頷いて、鏡に向き直った兄さんは、笑顔だ。
私より少しだけ雑な手つきで化粧水を顔にはたいている兄さんの隣で、私も乳液を顔に馴染ませる。
時折、鏡ごしに目が合い、そのたびに兄さんは楽しげに瞳をきらめかせた。その隣に映る私も、唇を綻ばせている。
きっと兄さんも、あの頃のことを忘れていない。それでも、私達はいま、ここにいるのだ。
あの頃の、地続きの、いま。
胸があたたかなもので満たされていく。
どこかの部屋のドアが開く音がして、スリッパの足音が聞こえた。
私と兄さんはまた視線を合わせて、どちらともなく微笑んだ。足の位置はそのまま。スキンケアの手を早めたりもしない。だって、三人目の誰かが隣に並んでも困らないくらい、この洗面所は広いのだ。
私達の朝が、今日も始まる。
