I01 門出

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ほんの数か月前、目の前には、空席だらけの客席が広がっていた。それでもなお、嬉しいと感じていたけど。でも、今、オレの目の前には、零れ落ちそうなほどの無数の光が、虹色が、輝いている。ステージ上にいる俺たちに向かって、声援とともにいくつもの光が揺らめいている。子どものころから、必ずみられるはずだと信じて疑わなかった景色がそこにある。
はあっ、と熱気のこもった息を一つ吐き、オレは自然と満面の笑みで、メンバーたちとともに、客席に向かって手を振っていた。
ああ、まぶしいなあ。まぶしすぎて、なんだか泣いちゃいそうだ。まだステージ上だから泣かないけど。だけど、物心ついたころから手を伸ばし続け、そしてやっと、つかめたのかもしれない、と思うと、心の奥から気持ちがあふれて止まらなくなる。ステージから降りるまでは、この気持ちをしまっておかないと。

ふと目が覚めて、三月はベットの中でもぞもぞと少し動いてから、割とサッと起き上がる。起き上がってすぐ、彼は今までの風景が夢なんだと自覚した。でも、それは幻想でもなんでもなくて、昨日体験したことを夢の中でも再度思い出していただけだ、ということも分かっていた。
「…。ふふ。楽しかったな。」寝起き特有の回らない頭で夢の事と昨日のことを思い出し、寝起き特有の若干しゃがれた声でとろとろと呟く。こんなにも満たされていると感じているのに、それと同じくらい、まだまだ満たされないと感じるなんて、どんな贅沢なんだろうか…。それを思い出しては、ふふふ、と微笑んで、思わず昨日のライブのセットリストの曲をハミングする。普段から寝起きはいい方で、気分が悪くなることは滅多にないけど、ここまで気分のいい目覚めは何年ぶりだろう!と感動していた。
ルンルン気分でベットから出てスマホを確認する。家族のグループラビチャに両親からのメッセージが入っていた。読んでるこっちが恥ずかしくなるような、でも気持ちがこもっていてつい目頭が熱くなってしまうメッセージがずらっと並んでいた。
「昨日のライブ、来てくれていたんだ…。」三月はメッセージを一つずつ読んでいく。一番下まで読み終えて、見に来てくれてありがとう、と返信して、そこで一織が両親のメッセージに返信していないことに気が付く。アイツ、読んだらすぐに返事するんだけどな。特にこういうメッセージはスケジュール調整とかじゃないから、速攻で返信してそうなのに。
「まだ読んでないのか。」そう思ってると、三月が送ったメッセージに既読がつき、母親から返事が返ってきた。
『もし今日、時間があるなら久しぶりに家に寄っていかない?』
三月は少し考え、スマホを持ったまま部屋を後にし一織の部屋に向かった。

一織の部屋の扉をノックする。しばらく待っているとガチャリと扉が開いて、どこか眠そうな顔の一織が扉の隙間から顔をのぞかせた。
「兄さん、おはようございます。今日は何もないのに、やけに朝早いですね。」
「おはよー、一織、もしかしてまだ寝てた?」
「まさか。そんなわけないでしょう。」
「でも、普段より眠そう。興奮で寝れなかった?」
別に、意図があって聞いたわけではない。単純に昨日の晩の様子が知りたくて聞いただけだったのに、なぜか一織は過剰に驚いてきた。
「ちょっ…兄さん、こんな場所で茶化さないで!皆さんに聞こえてしまいます。」
ちょっと焦ってる感じの一織。
はは、さては本当に興奮して寝れなかったんだな…と、心の中で茶化すように言う。
「あはは、わかったわかった。でもオレは興奮がまだ続いてるっぽい。夢にも出てきたし。」
「そうなんですね、私は生憎今日の夢の内容は、起きた瞬間に忘れました。」
「ダウト。そもそも一織、夢見ないんだろ?」
あっ、と反応する一織を横目に、三月は廊下にずらっと並んだ扉を見渡してから再度一織のほうに向きなおる。
「他にも話したいことがあるから、とりあえず部屋の中入れてくんない?ここでしゃべってたら、アイツら起こしちゃいそうだから。」
「…そうですか。分かりました。どうぞ。」
一織が扉をあけ、その奥に三月を招き入れるしぐさをする。
「ありがど、じゃ、お邪魔します。」
三月はするりと扉の向こうに入り込んだ。

部屋に入るとロフトベッドがすぐ目に付く。三月は使ったことがない。
「一織、ロフトベッドってどう?体痛くなりそうなイメージあるんだけどさ。」
「案外快適ですよ。というか…兄さん、昨日の晩の事は覚えてますか?」
「え?昨日?…あー。打ち上げはしたな?そこで呑んだのは覚えてっけど、なんかあったか?」
きょとんとして三月が聞くと、一織はあからさまに、はあ、と大きなため息をつき肩を落とした。
「兄さん覚えてないんですね…。昨日酔っ払ってちょっとおかしくなってましたよ、それにすぐ酔いつぶれて寝ていましたし。」
「えっ、マジ?!」
「マジですよ、でも気にしないで大丈夫です。かわいかったので。」
「えっ、酔っ払ってたけど、かわいかったって、何…?ちょ、オレ、みんなの前で相当やばいことやったんじゃ?!」
一織がにこやかに微笑む一方で三月はどんどん顔が青ざめ、慌てた様子になっていく。
「大和さんの前で変になるのは全然気にならないけどさ…え?オレ、子どもたちの前でもやらかしちゃったの???」
その様子がなんだか可愛らしくて、一織の心にちょっとしたイタズラ心が芽生える。微笑みからただの笑みに変わり、目じりが下がって目も細くなっていた。けれど口元はちょっと得意げ。
「まあ、私は兄さんのプロですので、何の問題もなかったですけれど。」
三月は一瞬ほっとする、けど、
「ただ…他のみなさんはどうだったでしょう?ああ、危害を加えるなど、洒落にならないことにはなってなかったので、それは安心してくださいね。」
「なあ゛ーーっ!一織ぃーーーっ!それ以上話さないでっっ!」
三月は恥ずかしさで悶え、顔を俯かせながら両手でがっつりと一織の肩を横からつかむ。
「朝から死にそうだから!恥ずかしくて!」そして、一織を軽く揺さぶった。
「大丈夫ですよ、本当に大丈夫でしたから。イメージが変わる程のものじゃなかったと思いますよ。」
「本当…?信じていいんだよな?」三月が上目遣いで一織を見る。一織にはその様子が、救いを求める子猫のように見えた。
「ほんとですって。まあ、あくまでも私視点ですけどね。そんなに気になるなら、他のメンバーにも聞いてみます?」
「いやいい!絶対凹む。…。うわあー…やっちゃったなあ…年長者失格だよ。」
一織をつかんでいた両手を離して、そのまま床にストンと座り込んだ。一織はそんな兄を横目に、声をやわらげた。
「気にしすぎですよ、兄さん。年上だから、年長者だから完璧でいてくれないと嫌だ!なんて、誰も思ってないと思います。」
「そうか?オレは記憶が全くないから、分からないんだけど、信じていい?本当に、みんなに謝らなくて大丈夫?」三月が不安げに一織に聞く。
「もちろんです。実はからかいたくなって、誇張してました。他の皆さん全然迷惑そうじゃなかったですよ。」
その言葉に、三月の肩から少し力が抜ける。一織は三月と目線を合わせるように、三月に近づいてストンと座った。
「ああ、そっか、それなら良かった…。」
ほっとした声で三月がつぶやいた。しかし、それもつかの間、声色に重さが加わる。
「idolish7がチームとしてやっと足並みそろってきたこの時期に、変な所見せておかしな刺激を与えてしまってたらどうしようって。」
さっきまで緊張で見開かれていた眼がゆるみ、やわらかくなる。しかし、どこか悲し気に目元や眉が垂れている。
「何か不安でもあるんですか、兄さん。」
「あると言えばあるし、ないと言えばないよ。というか、心配したってどうにもならないことを心配しているって感じかな。」
一織が彼なりに手を差し伸べるように声をかけると、三月は心の奥深くに漂わせている不安をそっと差し出すように返事し、さらに喋りつづけた。その言葉に一織はどんどん飲まれていく。
「ま、まだ始まったばっかだから。不安だらけなのが当たり前だって分かってるよ。」
目元の悲し気なオーラを残したまま、あははっ!と笑う。笑った拍子に目が細くなって…しかし次の瞬間、一織に優しく、しかし訴えかけるように、目が大きく見開かれた、笑顔のまま。
「けど、オレにとっちゃ、やっとの思いでつかんだチャンスなんだ、何としてでもモノにしたい、んだよね。」
その言葉を聞いて、一織は記憶を逡巡する。三月の、報われない努力を傍から見ることしかできなかった。
笑顔の代わりに少しの悲しさや覚悟が見え隠れする、真剣な顔をしていた。
「…。ええ、もちろん。」
「こんなこというなんてさ、ほんとはよくないって分かってんだよ。特にお前は弟だしな、オレの。」
へにゃりと三月が笑ってそういうと、一織は食らいつくようにまくし立てて話し始めた。
「兄さん!そんなこと、言わないでくださいよ!無理に一人で解決しようとしないで。普段全く話してくれない兄さんが…。相当な思いがあるから話してくれたんでしょ、知ってます。何年貴方の弟をやってきたと思ってるんですか。」
三月により近づこうとしたのか、片手を床について、無意識のうちにかなりの前傾姿勢になっていた。
「一織、ありがとな、心配してくれて。その言葉が聞けただけでオレは十分だよ。」
三月は自分の目線より下にある一織の頭に、何かを受け止めるように手をそっと乗せようとして、三月は髪の隙間から一織の両目をちらっと見てしまった。三月が気づく由もないのだが、その目はさっき三月が一織にしていたものと瓜二つだった。さっき、一織が猫みたいだと思った、みつきの上目遣いの目は、実は不安や緊張で大きく開いた目だった。
三月はそれをちらりと見て、すぐに目をそらし、手を降ろす。
完璧の権化だと自己紹介し、実際スキが全くない一織だ。多分、自分がそういう目をしていると気づいていないから、そうなっているだけで本当は…。
三月は、一瞬、”兄”の目になる、が、自制した。
感情に呑まれて動揺で揺れる一織の両目を見ないように、すっと両目を閉じて顔を上げ、一織の頭の上から見通せる、部屋の壁を見つめた。
一織に言いたくても言えない思いを、心の中で、言葉にして紡いでいく。
兄ちゃんに、頼ってもいいんだぞ、一織。たとえ、お前がオレを超えるくらい完璧でも、オレはお前の事、本当は、大切にしたいんだから…。
でも、多分、お前と、そして、オレのプライドがそれを許さないだろう、と思う。ほんと、ままならないもんだな…。
三月は降ろした手をゆっくりと床に添えるように置き、そのまま床に敷かれたラグをぎゅっと握りしめた。
そうやって、心を落ち着かせて、三月は口を開いた。
「ありがとな。本当に。昨日のライブでも、その前も。一織にはいろんな面で助けてもらってるな、って思ってるよ。」
その気持ちは本当だった。つい最近まで、ケンカやまとまりのなさが酷すぎたのを何とかしようとしてくれていたのもそうだけど…。
三月は下を見ないように、床についている一織の手の指先を探って、指先でチョン、と触れる。
活動停止、多分お前の入れ知恵だろ?どこまでお前が肩入れしてっか知らねえけどさ…。でもあれはあまりにあからさまだったから分かっちゃったよ、オレ。
あの時、一織お前は何をやってるんだ…。って思った。でも、すべてうまくいった。すげえな、一織。ほんと、ウザいくらいだよ。
「本当、お前は自慢の弟だよ。」壁に向かって言うと
「それ、本当ですか?」と下から声がした。
「ん、ああ、もちろんだよ。オレもそう思ってるし、母さん父さんもそう言ってたぞ。」
「本当ですか?」一織がゆっくり体を起こす。
三月はそのすきに、いつもするように、心の中で何かを諦めて、悲しみと愛しさを受け入れた。
「ああ。お前まだスマホ見てないよな?見てやってよ、家族のラビチャ。二人ともめっちゃ喜んで、俺たちの事褒めてたから!」
さっきのことなど何も見ていないかのように、三月はいつも通り明るい声色に戻った。

一織は三月に言われた通り、自分のスマホを手に取ってチャットを開いた。そして、今朝三月が読んだ、両親からのメッセージを読む。
「二人とも来てたんですか?!ライブに。」
「な?オレ達に言ってくれたらチケット融通したのにね。」
「シークレットで来たかったのかもしれませんが…でもなんだか恥ずかしいですね、知らない間に見られていたなんて。」
「そう?二人とも、学校の劇や部活の出し物で、オレたちがやる歌や演技を見てきただろ?何も今更恥ずかしがることないない。」
「それもそうですね、それにしても、二人ともメッセージの量が多すぎませんか?」
「それ!一織もそう思うよな?マジで多すぎるよな、嬉しいけどさ。なあ、一織。メッセージ覗いてもいいか?」
「もちろんです。」「ありがと。」
兄弟は横並びで仲良く一つの画面を覗き込んだ。メッセージを一つずつ読んでいき、一番最後のメッセージに到着する。
「母さんが『もし今日、時間があるなら久しぶりに家に寄っていかない?』って言ってきてますね。」
「そうそう!これについて一織にどうしたいか聞こうと思ってたんだ。お前も今日何もないよな。一織、どうする?」
「取りに行きたい参考書があるんですよね、だから行きたいです。けど、マネージャーに一応確認してからで。」
一織はそのまま、マネージャーとのチャットを開き、『今日、何かスケジュールはありますか。』と素早く入力する。すると一瞬で既読がつき、『今日は一織さん含め、皆さんオフです。もし誰かに聞かれたらそう教えてあげてください。昨日はライブお疲れ様でした!』というメッセージとともに、スタンプが一つ送られてきた。それを見た三月が思わず、「やっば。マネージャー返信はっや。」と漏らした。
「早いですよねえ、まだ若いのに。おそらく有能な方なんでしょう。」
「まだ若いのに有能て、お前が言うかよパーフェクト高校生。」
「兄さんも若いですよ、それに私がパーフェクトなら、有能と褒めるのもできて当然です。」
「それ言われると何も反論できねーんだよ。禁止カードな、それ。」
「兄さん、その理屈だと、私ができる反論は大体禁止カードになってしまいそうです。」
「コメントに困る返しをするんじゃねーーよ!」

「それで、兄さん。何時に寮を出ますか?」
「そうだなあ、調べてみるか。あ、その前に何時ならいいか母さんに聞いたほうがいいんじゃないか?」
そういって、三月は自分の携帯を取るためにさっきまで座っていた場所に戻って、家族のグループラビチャに
『今日一織と一緒に帰るわ。何時が都合いい?』
というメッセージを送った。
『何時でもいいよ。今日はお店の定休日だから』と、母親から30秒と待たずに返信が返ってきた。
「うおっ、もう返信きた。一織、いつでもいいってさ。」携帯から目を離し、一織の方を向く
「本当ですね、兄さんはどうしたいですか?私はいつでも大丈夫ですよ。」
「わかった。じゃあ、朝ごはんだけ食べて早めに出発するか。明日は仕事だし、早めに帰りたいからな。」
「そうしましょう。」
「よしっ、じゃあ早速朝ごはん作るか。」
三月が立ち上がると
「そうしましょう、私も手伝います。」
一織も立ち上がり、三月の後ろについていく。
2人はそのまま部屋から出ていった。
三月と一織は冷蔵庫や周囲の棚を全体的に見渡した。卵は切らさないように買いだめしているから人数分あったが、いつも出してるハムやソーセージ、魚みたいな主食がない。三月が軽く頭を抱えた。
「あちゃー。本来なら昨日は買い出しの日だったからなあ。」
「ライブですっかり忘れてましたね。私のミスでもあります。」
「ミスって、そんな大げさに捉えんなよ。そんなんじゃこれから持たないぞ?」
三月が棚の奥の方に何か使えそうなものが眠ってないか探ろうとしながら、一織を嗜める。
「そんなに重たく捉えてませんよ。これまでだって私が悩みすぎることはなかったでしょう?」
一織は上の方にある棚から順に、三月が探している棚とは別の棚を探っていく。
「まぁ、そうだな。お前器用だからな。」
三月は少し考えてから、そう返事した。

2人があり合わせで朝ごはんを作っていると、ガチャリと音を立てて扉を開け、そこから陸がリビングに入ってくる。普段なら他のメンバーも起き出してくる時間だが、昨日はライブからの打ち上げで大人組も子ども組も各々疲れ切っていた。特に度を超えて酔っ払ってしまっていた壮五くんは起きていても恥ずかしがって、今頃部屋で1人反省会をしているに違いなかった。

「おはよー、いおり、三月。あっ、朝ごはん作ってくれてありがとう!うわぁ…美味しそう!」
入ってくるや否やキッチンに駆け寄ってきて、2人の手元を覗き込む。
「おはようございます、七瀬さん。他に誰か起きそうですか?」
陸は顔を上げてリビングを見渡す。
「誰も起きてこなさそうだったけど…。あれ、壮五さんまだ起きてないんだ。オレ見てくるね。」
陸がキッチンから廊下に出て行こうとする。
「ああ陸、無理やり起こさなくてもいいからな。すぐに出てきそうかどうかだけ見てきて。」
「わかった!三月。すぐ食べるかどうかだけ聞いてくるね!」そう言って元気よく部屋を出ていく。
「兄さん。壮五さんが起きてこないのも…。」
「一織、分かってんならそっとしてやってな…。多分、オレ以上にショック受けて自己嫌悪してるだろうから…。あ、そっちオレやるから、そこの棚から皿取ってくれ、一織。」
「わかりました。それにしてもお酒って怖いですね。」
「一織も気ぃつけなよ、お前も大概酒飲んだら変わりそうなタイプだから。」
「えっ、そうですか?」
「趣味がモロバレになりそう。」
それを聞いて、一織は顔を真っ赤にさせる。
「…っ!成人しても、お酒は控えるようにします…。」
三月はそれを横目でチラッと見て、クスッと笑った。

5分もしないうちにガチャンと扉がまた開いて陸が戻ってきた。
「壮五さん、多分まだ寝ているかも。ドア越しに何度か声をかけて、ノックもしたけど返事がなくて。」
先ほどと同様、陸がキッチンのほうに向かって歩いてきながら二人に声をかける。
「陸、ありがと。壮五、酒はまだ飲み慣れてないからな。今日は昼まで寝てるかも。起きて気分悪そうなら、味噌汁出してあげて。今作ってるけど、これなくなってたらインスタントでもいいから。」
三月が鍋の火を止め、3つのお椀を手元に並べながら話す。
「おっけー、三月。壮五さんがしんどそうだったらそうするね。あ、何か手伝おうか?」
「じゃあ、七瀬さん。皿を運んでもらえますか。私が盛り付けておくので。」
一織がちょうど盛り付けたばかりの皿を陸に差し出した。
「はーい。あれ、3人分でいいの?」陸が一織の手元をみて聞く。
「残りのメンバーには、起きた後に温めなおしてから盛り付けてもらってください。」
「わかった。あ、あとオレ、今日パンの気分だから運び終わったら焼くね。2人は?」
「私はご飯にします。兄さんは?」「オレもご飯で。」
「わかった。じゃあ一人分だけ焼いとくね。じゃ、これ持ってくね。」
「2枚でいいですよ、私1枚持ってくので。」「わかった。」
二人がテーブルに皿を置き、陸はパンを取ってトースターに、一織は茶碗を手に取ってご飯をよそいに行く。
「自分の分の味噌汁は持っていってな。」三月が三人分をよそい終える。「三月ありがとう。あ、箸まだおいてない。オレもってく。」「よろしくお願いします、七瀬さん。」

「「「いただきます」」」
机の上には三人分のおかずと味噌汁、2人分の茶碗と1人分のパン皿が並ぶ。出来立てらしいホカホカとした湯気が立ち上っていて、とてもいい匂いがしている。
「今日は、二人は何するんですか?」味噌汁のお椀をおいて陸が聞く。
「私と兄さんで、実家に顔を出してきます。日帰り旅行です。」
「へえ、いいじゃん!」
「そうそう。実は昨日のライブに来てくれてたみたいでさ。めっちゃ褒めてくれてたぞ。」
「本当???それ、二人は知ってたの?」
「いや、知りませんでした。お忍びで来ていたようです。」
「な?さっき一織とも同じことを話していたんだ。言ってくれたらいい席用意できたのにって。」
兄弟のやり取りを聞きながら、陸は、「でも、オレも参加する時は何も言わないと思う。この前のtriggerのライブに行くとき、連絡ができても、天にいには何も言わずに参加したと思うから。」
それを聞いて、三月は気まずそうな顔をした。一織も、顔には出さないものの、目線を落とした。それを陸が素早く察知する。
「…。ごめん!オレのような理由じゃないよね!二人の両親が何も言わずに参加してたのって。なんでなのかな。」
「…兄さん、今日家に帰って聞いてみませんか。」
「そうだな、聞いてみよう。」
「オレも理由知りたい!もし聞けたら教えてよ。あっ、教えられない内容なら教えなくていいよ。」
「おーけー。陸。」
「あと、二人ともご飯食べたらすぐ出るの?」
「オレはそのつもり。一織は?」
「私もそのつもりでしたよ。着くまでに時間がかかりますから。それに、私は実家で参考書を整理したいので、そのための時間もほしいです。」
「じゃあオレはレシピでも持ってこようかな。あっ、そうだ、陸!お前、ご飯だと何が好き?」
「えっ?オレは何でも好きです、でも、特に好きなのはオムライスです!昔お母さんが良く作ってくれて。それで大好きになったんです!」
晴れ渡るような清々しい笑顔で陸がにっこりと笑いながら言う。
「そっか!じゃあ、オムライスのレシピを探してくるな!」
それに対し、三月もにっこりと笑って返事する。
「ほんとですか!やったあ、楽しみにしています!」
一織はその様子を傍からじっと見る。陸が弟の目をしていた。とても可愛くて惹かれる目。
そして、三月は兄の目をしていた。それは、透き通るように真っすぐ、相手を思いやる年上の男の視線だった。自分には、長らく向けられたことのない視線だった。
自覚してから十年近く、遂にできなかった光景を見ながら、食事を続ける。
一織は弟の眼をする陸のほうを見る。今、何が起こった?彼は何を話した?どんな振る舞いをした?思い出してみる。多分、食事をとる前までのやり取りは関係ない。七瀬さんが話したのは、今日私たちが何をするのかという質問と、先日のライブや実兄との確執の話、そして、好きな食べ物の話…。九条天との話では、口を滑らせた感じで空気を気まずくしてたけど、それ以外では普段通り楽しそうに話す…。
振り返ってみて、自分には無理だと直感する。あんなに朗らかになんてなれない。やり方が分からない…。
そこまで考えて、一織は考えることを辞めた。もう無駄だと感じたから。
代わりに、それでも何かをしてあげたいという願いだけが心に残った。兄は兄でいようとしてくれているのに、自分は弟になれなかったから。だから大好きな兄を”兄”にしてあげられなかったから。
せめて、このグループだけは、idolish7だけは何としてでも成功させないといけない、と心に強く誓う。
せめて、目標をかなえる手助けくらいはさせてください、三月兄さん。
そう心の中で訴えながら、一織は三月の笑顔を、やはり可愛らしいと思ってしまいながら眺めた。

朝ご飯を食べ終え、食器を片付け、陸に見送られて二人は実家へ向かう電車に乗った。
新人とはいえ、多少は名が知られてきたため二人ともマスクにメガネをして変装した。
「一織、折角だから何かお土産でも買ってもって行こうか。」
「ちょうど私もそれを考えていました。次の駅で降りてこの雑貨店に行きませんか。お土産も買えるし、それに…。」
一織は少し戸惑い、でも、勇気を出して教える。
「どうやら、うさみみフレンズがコラボしてて、限定グッズがもらえるみたいなんです。…。何種類かあって、情報によると、今朝の時点では好きなものを選ばせてもらえたとか…。」
一織の声がどんどんしりすぼみになって小さくなっていく。
「お、いいじゃんいいじゃん。母さんのお気に入りの雑貨屋じゃんか、それに、ここが作ってる石鹸は父さんのお気に入りだろ。それに一織の好きなキャラもいるなら、最高だ。」
三月はにっこりと笑った。
「先に伝えておきますけど、メンバーには内緒にしててくださいね。恥ずかしいので。」
メガネとマスク越しでも照れているのが分かった。
「勿論だって、心配すんな。」
それを聞いた一織は、三月から目をそらし、もじもじして居心地悪そうに
「じゃあ、次の駅で降りましょう。店までの順路は覚えているので、ついてきてください。」
といった。三月はそれをちょっと得意げに、やれやれ、と思いながら眺め、
「コラボの事、前から知ってたのか?」と聞いた。
「いえ、電車に乗ったときにお土産屋を調べてたら偶々見つけました。」
…。オレ、お土産のこと思い付いたの、ついさっきなんだけど。
「店には、いったことあるのか?」
「ないですよ。でも、地図をもう覚えたので問題ないです。」
迷路みたいにややこしい地下街の地図なんて、覚えられるのか?
「…。じゃあ案内よろしくな。ちなみに、どんなお土産が買えそう?」
「これとこれ、ですかね。これは先月、母さんのインスタに写っていたので、家にあります。えっと、この写真ですね。」
そういって、一織は写真の端に小さく写るマグカップを指さした。
やっぱ、こいつ完璧すぎるな…。と三月は思い直した。

結局、お土産にはお揃いのキーケースを買った。そして、一織は、それはもう、もじもじしながらも、全力で楽しんで、レジでうさみみフレンズを選んでいた。
三月はその様子を遠くから見ていた。
「…結局さ、可愛い奴だよな。」誰にも聞かれないように、”弟”を見つめながらつぶやく。三月にとって、一織がうさみみフレンズに気を取られている瞬間だけは、気を使わずに”兄”でいられる瞬間だった。その瞬間だけは、彼を包み切れそうな気がして。
ほどなくして、一織がお土産とうさみみフレンズの入ったビニール袋を片手に戻ってくる。
「兄さん…!全種類そろいました…!」メガネの奥の瞳がきらっきらしている。
「まじ?!良かったじゃん、一織!どんな子たちなの?見たい。」
「実家についたら見ましょう。電車がもうすぐきます。」
一織はすっ、と携帯を取り出し、電車のタイムスケジュールを見せてきた。
「…おっけ、分かった。それなら急がなきゃね。」
「いや、急ぐほどでもないです。時間的にも歩いていくのがいいと思います。」
「ああそう、じゃあ、そうしようか。」
三月は無心で完璧な一織についていった。

1時間半ほど電車を乗り継いで、兄弟は実家の最寄り駅につく。
二人はあちこちを見まわしながら住宅街を、横並びで歩いていた。特に三月は電柱の張り紙や、家の標識、五月蠅い飼い犬に至るまで、ありとあらゆるものを見ようときょろきょろしている。
「いやー懐かしいなー!一織はどう?」
「私はこっちに来てから半年も経ってないです、から、あまり分からないです。」
「あそっか、そうじゃん!一織はつい最近までこっちにいてたもんな。」
「逆に兄さんは学校行くために数年前にはここを離れていましたよね。」
「そーそー。しかも、地元の奴ら全員ここ離れてたから、あそぶと言ってもいっつも東京でさ。めったに帰る用事なかったんだよな、後忙しすぎた。」
「学業と大量のバイトだけでなく、プラスでレッスンやオーディションでしたよね。」
「そうそう、だから、毎日余裕なんてない。24時間365日動いてた。いやーーーあの時期はマジでヤバかったねーーー、忙しすぎた。」
「それがこなせるだけでも十分すごいですよ。私はできないです。」
きょろきょろしていた三月が一織と目を合わせる。
「あんなの、体力あればできる。一織もやろうと思えば絶対できる。」
「でも、やろうと思ったことすらないですよ。」
「でも今は既に事務所に所属して、正式にデビューできそうなんだから必要ないって。」
「けど…。」
「無理に自分を降ろすような発言はしなくていいよ、一織。おまえはそのままですごいんだから。」容赦のない発言。
「兄さん…。」返す言葉が見当たらなかった。もしくは、返させるつもりがなかった。
「それに、idolish7の活動が忙しくなればオレも一織も24時間365日忙しくアイドル業やることになるんだ、強制的に忙しくなるよ。」
三月はからからと笑って、その場の空気を優しく支配した。
「…そうですね。うん、確かに、そうだ、そうです。」
そこまで急いでないのに、一織の心拍数は早くなっていた。
二人の視線の先に、実家が小さく映る。
「もうすぐ着くなー。なあ、一織。」「なんですか。」
「来年はこうやって時間取れるかな。」何気なく、三月が聞く。
「今の調子ですと、今年中にJIMAに出られるんじゃないかなって、実は思ってるんです。」何気なく、一織が答える。
「はあああああああ?!本気か?!?!?!」三月が全力で驚いた。
「兄さん!声が大きすぎです!抑えて、抑えて!」一織も全力で驚いた。
「あら、和泉さんの息子さんたちじゃない!お兄ちゃんも、弟君も、久しぶりねえ!」
「「わあああっ?!?!」」急に後ろから、割と甲高い声で声をかけられ、二人はのけぞり飛び跳ねた。

彼女は10年来の実家の常連客で、二人とも10年来の面識があった。それに、2人のお母さんと彼女は気が合うらしく、かなり仲のいい友達でもあった。今日は会いに行く用事があるらしく、行き先が同じなので、3人で一緒にfonte chocolatに向かうことにした。

「いなくなったと思ったらテレビやネットで急にアイドル活動始めたって、学校中で話題になってるんだって、娘が言ってたんよ。それで、いったい何があったんですかって、お母さんに聞いたらそろってオーディションに受かって上京したって聞いたもんだから、びっくりしたわ。え?!本当?!って。」
さっきの甲高い声は何だったのか、と思うほど穏やかで落ち着いた声。
「まじっすか!たしか、ハナさんですよね。嬉しいなあ、知ってくれてるんだ。そうだ、一織はしゃべったことあるの?」
三月も一織も、声量に気を付けながらも、10年程なんだかんだで見守ってくれたおばさんとの会話を楽しんだ。
「いや…恥ずかしながら、学校でもそれ以外でも、彼女とは喋ったことないですよ。」
「気にしないで、気にしないで!あの子も内気だし、アイドル業なら寧ろ、そういう関わりはないほうが良いんでしょう?」おばさんが一織に聞く。
「まあ、間違ってはないですね。」そこに三月がさりげない反論をする。
「うーん。人間関係を楽しんでおくのもいいだろうけどな。アイドルになっちゃうと、そういうのはどうしても気を遣うし。…恋愛しろって言ってるわけじゃなくてな???」
「わかってます、わかってますよ。そもそも私は素で交友関係を広げるほうではないんです。別に、無理をしていたわけでは…。」
「それならよかったよ。というか、この話誰かに聞かれてたりしない、よな…?」
三月が心配そうに、あたりを見渡す。
「多分大丈夫でしょう、私も気にしてはいますが、そういう気配はしてませんし…。あ、もう着きましたね。」
「この看板だけは、二人が小さいころに新しくして以来、ずっと変えてないよねえ。」
3人は店の看板を見つめる。fonte chocolatと書かれた上品なデザインの中に、小さく子どもが書いたような絵が二つ、アクセントとして入っている。それは、三月と一織が子どものころに描いた絵だった。
「おかえり、三月、一織。」
店の奥の勝手口のほうから、母親が出てきた。
「「ただいま。」」
そのまま、彼女はもう1人の来客に目を向ける。
「ななこちゃん!道中で2人に会ったの?」
そう喋りながらも、来客が持っている手荷物をさっと預かり、ドアを押さえてスマートに店の中に入れる。
「そう、たまたまバッタリね。」
そんな感じで、井戸端会議が始まりそうになったので、
「なぁ母さん、オレたち先に家に入っていいか?」と三月が聞く。
「あ、ごめんごめん、中入っちゃってて。15分くらいで終わるから。」
「わかった、一織、行こっか。」
「そうしましょうか。」 
2人は店の中を進み、自宅の方につながる扉を開けて久しぶりの実家に帰った。
「ただいまー。」「ただいま」
声を聞きつけて、父親が出てくる。
「おかえり」
2人が昔、父の日に送った色褪せたエプロンをつけていた。そして、家の奥の方、父親の後ろの方から懐かしい甘い香りが漂って、二人の鼻をくすぐる。
「一織、前の学校の荷物の整理しにきたんだろ。こっちは構わなくていいから。一休みしたら先にそっちをやってしまいなさい。三月も手伝うなら一織の方を頼む。」
怒ってるわけでもなく、しかし笑うでもなく、淡々とそういって父親はまたキッチンに引っ込んでいく。履いている靴下は家でだけ履いている、彼愛用の、猫柄のとてもファンシーなふわふわしたものだった。
「父さん、本当に変わらないなぁ、な?一織。」
「…あっ、そうですね。全く変わってませんね。」
キッチンの奥から香ってくる匂いは、お祝いのたびに父親が焼いてくれていたクッキーのもの。2人はそのこともよく分かっていた。

二人の実家は店舗兼自宅の一軒家で、2階に兄弟の部屋が並んでいる。部屋に戻るために二人は階段を上がっていた。
「まぁ、じゃあ、一織の荷物をまとめてしまうか。一織、どれくらいあるんだ?」
「ほとんどまとめてから寮に引っ越したので、そんなに多くはないと思うんですが。でも、すべて終わったわけではない、ですかね…。」
「そうだよな、オーディションに受かってから入寮まで1ヶ月あった?」
「なかったです。」
「お前よくやれたなぁ…。引っ越ししかなかったオレでも色々大変だったのに。一織は引っ越しと転校、両方やったんだもんな。」
「転入試験は全く問題なかったんですけど、手続き関係はしたことがなかったので、悩みましたね。両親に手伝ってもらったので、何とかなりましたが。」
「調べる間もなく、急に転校そして寮暮らし、だったもんな。」
そこまで聞いて、あれ、と三月は思う。一織がこんなに不計画になることなんてあったか?
オレの場合はオーディションに受からないことのほうが、正直多かった。オレが今回受かったのは、あまり考えたくないけど、正直例外みたいなもので…。だから予想外っちゃ予想外なわけで。
けど一織はそんなことないはず。アイツなら一発でスッと何でもこなしてしまうから。でもそれならさ、受かるって予想できたんじゃないか?そして、高校生で受かったらどんな生活になるのかも、先に予想を立てられるはず。一織なら。
「でもさ、なんか、らしくないよな。」無意識のうちに三月は口走っていた。
「何がですか?」
「いや、一織らしくないなって。あ、変な意味じゃないよ?」
「…。まあ、私はまだ高校生ですから。」その戸惑い方が一織らしくなくて、妙に引っかかる。妙にもっと考えたくなる。
三月はそんなことを頭の片隅で考えつつ、「そっか、まあまだ高校生だもんな」とそれっぽい返事や表情で弟との会話も続けていた。

その一方で、一織は唐突に荷物を片付けろと言われて、面食らっていた。もう全部片づけたはずだし、残りの物は部屋に置いておいてって言ったはずだ。自分の中で片付けはほぼ終わっているのに。一つ二つくらい捨てるのを忘れていた物はあるけど、そんなに大きなものではないし、邪魔にはならないはずなんですが…。
ほんの少しだけ、疑問に思いながらも、片付けるべきものが残っているのは確かなので、まあいいか、と、あまり深く考えなかった。

階段を上り切り、一織の部屋の扉の前に来る。今まで三月が前を歩いていたが扉を開けて部屋に入る時は流石に一織を前にした。一織が自室の扉を開け、一織の部屋の様子が三月の目に飛び込んできた。その部屋を見て、三月はかつて感じた違和感をさらに思い出す。
三月の視線の先には、A4にも満たない小さなクリップボードがある。勉強中でもすぐにみられるように机の近くの壁にかけられていて、そこに大学受験に向けた目標みたいなものが貼ってあった。机の隣には本棚がある。三月は自然とそちらにも目線を向けた。そしてそのまま本棚に集中すると、名作とされる参考書がいくつか並んでいるのが分かった。背表紙だけで、一織がどれだけ賢いのかを思い知らされるようなラインナップだ。でも、これはオレも使ってた、というか使わされていたな。
三月はそこから辞書みたいな分厚さの数学の参考書を引き抜いて、手に取る。
数学の参考書だ。オレは黄色ですら正直難しいって思っていた。でも、一織は青色かあ…すごいな…いや、赤色もある。これは初めて見た。
それを見ているうちに、三月はなぜかだんだん嬉しくなって、遂に心の中で膝を打つ。
…そう、そうなんだよ、賢いんだよ、一織は。何でもかんでも理詰めにして計画を立て、それから動く奴なんだ。突拍子のない思い付きの行動なんてするはずがない。
三月の頭の中で色んな思い出が駆け巡る。
そうだ、思い出した。オーディションを受ける段階で既に一織らしくないところがあった。そもそも一織はアイドルに興味がなかったんだ。それなのに急に小鳥遊事務所のオーディションを受けると言い出した。本人はアイドルに興味を持ったって言ってたけど、本当にそうなら、受験のための目標や本がある場所にはアイドルになるための目標や本がある気がする。
そんなことを考え、三月の足は自然と壁に貼ってある目標たちの方に向かう。棚に真っ先に向かい、その中身を確認している一織をよそに。そして、
「…なあ、一織。なんで急にアイドルをやりたいって思ったんだ。」
壁に貼られた目標を見たまま、そんな質問を口走っていた。

一織は部屋に三月を入れて、その直後にしまった!と思い、勉強机と反対側にある2段組みの小さなチェストを見た。兄さんにだけは見られたくない物を、あの棚に入れたままだった…!
普段なら気にしない。けど、今日は部屋の掃除をして運びきれなかった物を寮に運び入れるという目的がある。…そう。寮に持っていきたくても、持っていく勇気が出ず、持っていくとも、残しておいてほしいとも言わないまま放置していたものを処理しなければならない…。
後ろを確認し、三月が勉強机のほうに釘づけになっているのを確認して、チェストの前でしゃがみ、下のチェストの扉を開ける。そこにはレアなうさみみフレンズのグッズたちと、二枚のDVDが、そして数枚の写真がしまわれていた。一織はそれらをざっと見渡し、上のチェストの扉も開けた。
そこには、マネジメントの本が数冊、コミュニケーションや心理学についての本、アイドルプロデュースについての本と、カフェのマーケティングについての本が2冊ずつ入っていた。
一織が上下のチェストを眺め、さてどうしようか、と考え始めたところで、
「なあ、一織。なんで急にアイドルをやりたいって思ったんだ。」と、兄から質問され、ビクッと体が跳ねた。

「えっ…と。前に教えたとおりですよ。アイドルに興味が出てきたからです。」一織はチェストの扉を急いで閉め、恐る恐る後ろを振り返って三月を見る。こっちを見ていたら、チェストの中身を見られていたらどうしよう、そう心配したが、兄は机の前の壁を見たままでこちら側を振り返った様子はなかった。
…以前、兄である三月に「作戦立てて受かりたいわけじゃない、指図するな。」「オレの事はオレが決める。」そう言われた。なのに、懲りずに私はこんな本を大切にとっていて、時々読み返して、…さらに言えば頭の中に記憶して実行している。そんなところを見られたくはない。もっと正直に言うとバレたくない。それをすれば確実に傷つけてしまうから。
じゃあしなければいい、という人がいるかもしれない。でもそれは違うと言い切れる。
なぜ言い切れるのか?それは私と同じ状況で、私のしようとしていることを生業とし、社会的にも認められながら暮らしている人がいるから。そして、何となく、私のしようとしていることは、間違っていないと信じているから。
三月がこちらに振り向く。
「オレの影響か?」
「もちろんそれもあります。でも、最終的には私自身の意志です。」
「…オレさ、不思議なんだ。お前が急にアイドルになるって言いだしたのが。だって、一織、お前あんまりアイドルに興味なかっただろ、それにその、オレはだけどお前に対してさ、エンターテイメントっていう意味でさ、人を楽しませたい、とか、人に注目されたい、みたいな、そういうことあんまりやりそうなイメージがわかないんだ、オレはだけど。」
立ったままの三月、しゃがんだ一織。意図せず三月が一織を見下すような格好になる。
「そんなの…興味があるに、理由なんて必要ですか。」我ながら、私らしくもない言い訳。
「いらないけどさ。でも、そうじゃなくてな。」
三月がその場に座る。
「マジで、単純に疑問なだけなんだ。でも、何となくこれを聞いておかないと、お前の家族として、兄としてダメな気がするからきちんと話しておくべきだと思って。もし、一織が話しにくいってなら教えなくていい。」
「兄さん…」兄があまりにも純粋に、深層をえぐる質問してくるから、一織は返事に困ってしまった。

一織が言葉を詰まらせている。その様子をみて、三月は、口に出すのが怖かったり恥ずかしかったりする内容を考えているんだろうな、と予想していた。
三月は胡坐をかいたまま、後ろに手をついて椅子にもたれかかっているかのような格好になる。うーん…聞くのはまだ早かったか?いやでも、進路の話は今じゃないと取り返しつかないし。
頭の片隅に一織が書いて張った目標の付箋がちらつく。周りの事ばっかり気にして、自分のことを考えようとしなかったアイツが、やっと自分のために何かをしようとしているとわかって、嬉しかった。…嬉しかった?ああそうか、オレ、今わかった。
一織が目標を見つけていたことが分かって嬉しかったんだ。
「一織さ、いつも周りのこと気にかけてばっかだったじゃん、でも、やっと自分のやりたいことを見つけられたんだって思ったんだ。」
優しく微笑む。

目の前で兄が穏やかに微笑んでいる。『やりたいことを見つけられたようで嬉しかった』。なんて弟思いの兄なんだ!全く。とても、素晴らしいことですよ。素晴らしい人過ぎて、私の心の暗さなんて、きっと微塵も理解できないんでしょう。…いえ、分かってほしいなんて思いませんが。貴方にその役はふさわしくない。
でも、兄さん。少しぐらい、私だって甘えていいですか。
一織は一瞬俯き、でも、また顔を上げて今度は三月を真っすぐに見据える。
「逆ですよ、兄さん。あれだけやっても、私はやりたくなれなかったんです。目標にできなかったんです、あれらを。」
頑張って、貴方から離れようとした。でもできなかった。
「勉強はせいぜい紙に書いて勉強することくらいしか、方法がないと思って。でも、アイドルなら色んな練習があるでしょう、すごく忙しいじゃないですか。だから、形から入って夢や目標にするにはちょうどいいんじゃないかって、そう思ったんです。」
即興で思いついた出まかせをぺらぺらと口走る。
兄さん、あなたと一緒に何かを作り上げたいんです、それが私の夢なんです、って、そう素直に言えたらいいのにな。
…それでも、きっとあなたはこの言葉を信じてくれるでしょう。大丈夫です、多分、私の言ったことは本当ではないけれど、嘘でもないような感じがするから。だからどうか、同じグループで私がお節介を焼くことを許してください。

弟が言った言葉に、オレは衝撃を受けた。そんなにやっても夢中になれなかったのか。
一織にしては珍しく、自分の気持ちを分かってもらうために感情的になって話してる。
「…マジか、そういうことなのか。アイドルのほうが、形から入れて夢中になれる…ってか。いや、そういう視点もあるって初めて気づいたわ、でも確かに納得できる。」
そして、この想いを隠すために『アイドルに興味が出てきたから』なんて、嘘をついていたのか…と思う。本気になろうと本気で頑張ってる、なんて言ったら誤解されるに決まってるから。
「一織。話してくれてありがとな。オレ、お前のことちゃんとわかってやれてなかった。でも、お前のその気持ちは間違ってなんかないと思うぞ。」
そしたら一織は神妙な面持ちになって、今度はとてもシンプルだけど難しい質問をしてきた。

「では、兄さんは、どんな場合に間違っていると思うんですか。」
「うーん、その人がされて嫌がって、しかもその人のためにならないことをする場合じゃないか?」
「それはどういう意味ですか。」
「えーーっと???」
意外に一織の食いつきがよすぎる。嬉しいんだけどびっくりしたし、ちょっと哲学すぎる。まあ、嬉しいんだけど。でも、オレはそんな真剣な質問だと思ってなかったな…。
相変わらず、一織はこちらをじっと見つめてくる。そんなに見られたら変なこと言えない。完璧じゃなくてもいいけど、おかしな答えにだけはならないようにしたい。三月は必死に頭をひねって、それらしい言葉を紡いでいった。
「えっとだな、まず、相手を悲しませるのは良くないじゃんか。でも、悲しませたくないからって言って何も注意しないのは良くないよな。」
「はい。」
「赤ちゃんに、なんで勉強しないの!って怒るのは違うと思うけど、定期テスト前なのに宿題すらしない中学生には、相手が悲しんだとしても言ってあげるべきかなって思った。ガツンと言ってやらなきゃいけない時は言うべきだってね。でも、それ以外で相手を悲しませていい場面は今のオレには思いつかない気がする。」
それを聞いて、一織は何か考え込む。
「それは…昔からそう思っていますか?」
妙なことを聞いてくるなあ。
「ああ…それはどうだろう、考えたことがなかったからあまり分からないや。でも、あんまり変わってないんじゃないか?」
「昔と?」「昔と。」「そうですか。…何となく理解できました。」「そう?なら良かった。」
そういって、一織は三月から目線を外して黙り込んだ。

兄さんの考えが昔と変わってないこと、そのうえで、今の兄さんの考えが『合理的に見て、相手にとって得になる場合を除き、相手を悲しませてはいけない』であること…。
この二つが正しいなら、兄さんにとって、私のアドバイスや意見は何の意味も持たず、ただ兄さんを悲しませるだけの物だった…ことになる。
昔から『合理的に見て、相手にとって得になる場合を除き、相手を悲しませてはいけない』と思っていて、それでも兄さんは指図しないでほしいと言って私に食って掛かってきていた、ということだから。
多分、前から気づいてはいた。でも改めて兄さんの口から言われると、心に来るものがある。やっぱり、idolish7、もとい三月兄さんをマネジメントで支えることは出来ない…か。
顔をちょっとあげて三月を見る。「どうした?一織。」と聞いてくる。

私にとって、長い間、彼は唯一の希望だった。色んなけんかや仲たがいをしてそのたび失望した。辛いことに変わりはなかったけど、私と彼の間に希望が紡がれているのを決して疑ったりはしなかった。
けど今、そう。今この時になって、私は初めて、これまでに紡いできたものが本当に希望だったのかを疑うようになってしまった。いや、疑わなくてもいい要素が無くなってしまった。
…いや、それだけじゃない。私は、兄さんのそばにすらいられなくなるのかもしれない。だって、
そう思うと、体中が冷えていくような感覚に陥った。

一織がすっと立って、「少しお手洗いに行ってきます、兄さん、机の壁にある付箋をはがして捨てていてもらえますか。私も戻ったら掃除に加わりますから。」といい部屋を出ていった。
「あ…わかったよ。」
何が何だか分からないまま、なぜか取り残されているような感覚になりながらも、机の壁に貼られた付箋をはがすためにそちらに向かって、手を伸ばしそれらを一つ一つはがしていく。学年1位を目指すとか、偏差値で○○を目指すとか、ちょっとオレには想像つかないレベルの内容がさも当たり前かのように書かれている。
「やっぱさ、お前凄いよなぁ。」1人でつぶやく。
「でも、そんなお前でも悩むことはあるんだよな。」ぺりぺりと一枚ずつはがしていく。
「でも、一織はいつか必ず夢を持てるし、叶えられるよ絶対。だって、オレでもできそうなんだから。」
そして、一番最後に残った、一番机に近いところのある付箋を見て、三月ははがす手を止めてしまった。
「…ここって、演劇に強い○○大のあの学部じゃん…。」
ゼロが演劇系の素養を持っていると知って、オレが冗談半分で行ってみたいといった大学。自分の学力的にどう考えても無理そうだから、本気にはしてなかった。でも、一織なら余裕だろう。不審な点があるとすれば、
「わざわざ、こんなところに行かなくたっていいのに。」
アイツなら、もっと上に行けるという点だった。

今日は、やたらと変だ。知る事すべてが妙にずれていて矛盾する。
この付箋があるということは、アイツは、元から芸能系に興味があったということ。でも、さっきの言い分だと、芸能系に興味があるというよりは、大学受験のほうに興味があるような言い方だったし、他の付箋も芸能系の学部に入るため、というより、より上位の(そういう言い方が正しいのかはさておき)大学に入るための目標だった。
「…。アイツ。」
オレの事、追いかけてくれてたんだ、慕ってくれてたんだ。そう思って胸の中に感動が広がる。でも、その片隅で、ムカついてしまう気持ちがあった。

一織のような、何でもできる人間には同じ土俵に立ってほしくない。それくらいオレは本気で、だからこそ、そこでは優しくて抜けたところのある兄貴でなんかいられない。
でも、アイツはその抜けた穴を、欠点を可愛いと言って、突っついてくるのだ。その穴を埋めて、それでオレをもっと良くしようとして。でも、オレには、それがたまらなく辛い。才能がないと、素質がないと常に言われ続けているようなものだから。
でも、アイツが突っついてくるのは、単純にオレの事が好きで慕っているからこそだって分かっている。でも、一織。ごめん、受け入れてやれない。少なくとも今はまだ。飢えでぎらついたままの心で、一織と話したくないんだ。話せないんだ。アイドルとしてライブができた今でも、オレの心はまだ、分別がつかないまま吠えて、悲しくも嫌われることしかできない獣のような姿をしている。隠しているだけで。
三月は、一織に見つからないように、急いで最後の付箋を乱暴にはがして破り、それがばれないように他の付箋と一緒に丸めてごみ箱に捨てた。
捨てて数秒もしないうちにガチャリと扉が開き、一織が帰ってきて、三月がビクッと両肩を跳ね上がらせる。
三月は先ほどのことなど何もなかったかのように「まだ剥がすことしかできてないけど、これでいいか?」と元気でのんきな返事を返した。

「ええ、それで充分です。部屋の掃除ですが、私一人でも問題なくやれるんで、兄さんは休憩してて大丈夫ですよ。寧ろ、両親と話してきてほしいです。いきなり兄弟そろって家から出てきてしまったので、多分2人とも寂しがっていると思います。」
「…そうだな、分かった。ちょっと行ってくるな。」
一織には気づかれてないっぽい…よかった。一安心。
とはいえ、今の状態だと、いつボロが出てもおかしくない。そう思った三月は一旦リビングに向かい、両親の手伝いをすることにした。

階段をトントンと降りる。心を落ち着かせるように、もしくは、考えないようにするために、足に伝わる何でもない衝撃と対して大きくない足音に気を向ける。下の階からはやっぱりクッキーのにおいがしてくる。多分焼き終わったっぽい。そして、次第に両親が会話している声がしてくる。さっきのおばさんとの会話は終わったのかな。
階段を下り終わり、そのままリビングに向かう。
そして、ダイニングテーブルに座っている母親に「もう帰ったの?もしかして気ぃ遣わせた?」と聞いた。
「ううん、そんなことないよ。今日は元々予定がなかったんだけど、二人が帰ってくることを伝えたら、二人に渡したいものがあるからそれだけ渡してすぐ帰ってもいい?って言ってきて。」
そういって、紙袋を渡してくる。
「はい、これ。独り立ちおめでとう、って言ってたよ。」
「ありがとう。」口が開いたままの紙袋だったので、気になって中を確認する。そこにはオレンジ色と濃い青の、質のよさそうなタオルが二枚ずつ入っていた。
「色はテレビで見たイメージカラーとそろえたみたい。どう?オレンジと青になってる?」
「うん。」手を伸ばし、オレンジ色のタオルのほうの手触りを確認する。思ったより薄い。
三月は紙袋からタオルを取り出した。
「それ、薄いけどよく水を吸って、しかも乾くのが早いやつじゃない?」
「へええ。」三月はタオルのタグを確認する。確かにそこには有名そうなロゴマークがついていた。
「本当は手渡し出来たらよかったんだけど、2人はもう有名人だから外でプレゼントを渡したり、2人が入った店や家の中に入るのはよくないかなって思ったんだって。だからかな、さっき不用意にしゃべりかけてしまってごめんなさいって伝えといてって言ってたよ。」
母の言葉に三月は、あ、そっか、と思い、そして呆然とする。
アイドルになることで、人間関係が制限されることは覚悟していた。けど、たとえ、幼いころから気にかけてくれて良くしてくれて、加えて母さんの友達でもある、問題の起こりようがない近所のおばさんであっても、例外ではないってことなのか。
急に心の中に何とも言えない不安が膨らんでくる。
「…そっか、わかった。餞別ありがとうございますっていうのと、気を遣わせてしまってごめんなさい、でも助かります。っていうのを伝えておいて。」
「私の携帯を使ってラビチャ書いたら?」
「…いや、辞めとく、一応。気にしすぎかもしれないけど。」
例え母親のラビチャから送っていても、文面がオレの物だって思われたらその時点でダメだから。
「今後会える機会はほとんどないかもしれないけど、これからも応援してるからね、アイドル頑張ってねって、言ってたよ。」
「そっか、ありがとう。」
今更ながら、もう後には引けないんだという、不安と覚悟を三月は改めてかみしめる。
彼の母親はそれを傍から静かに眺めていた。父親は、何も口出しせず、2人に背を向けた状態でキッチンで作業していた。
「三月はさ、どんなアイドルになりたいの?」母親が口を開く。
「ゼロみたいなアイドルだよ、もちろん。」
「なぜ、ゼロを目指してるの?」
「…ゼロは、歌を聞いている人に何とも言えない幸せを与えていたと思うから。」
「じゃあ、三月は何とも言えない幸せを与えられるアイドルになりたいんだ。でもそれってどんなアイドルなの?」
「それは…。まだ分かってない。」三月がしゅんとして、そう返事する。
「本当に?でも、昨日のライブは私もお父さんも、何とも言えない幸せを感じたよ。」
「えっ…。」
「本当。」母親が笑う。
「親バカかもしれないけどね。でも、私たちはそうだったよ。」
それでも、三月の心と頭を戸惑いと喜びで満たすには十分すぎる言葉だった。
三月は、さっきとは違う意味でまた呆然とする。それに遅れて、ゆっくりと、温かい気持ちが波打つように心に入ってくる。
何も言葉を交わさない、ただ料理をする音が聞こえるだけの時間がゆるやかに流れていく。一方で、オレは慣れない感覚に一人飲み込まれる。心の底から照らされてまるごと満たされていくような感覚。不器用だからこういう感覚はあんまり経験したことがない…。
ああでも、とにかく今はあまり考えずに、この感覚に浸ろう。

「三月。お菓子が焼けたから、一織を呼んできてくれるか。」
「あ、わかった、父さん。」しばらくたった後、父親からの一声で、三月は我に返って、言われたまま一織を呼びに行った。
扉をノックして、一織に声をかける。
「一織。父さんたちが呼んでる。お茶しようって言ってる。」
扉の向こうから、分かりました、今行きます。と一織の声がする。1分ほどして、部屋の奥から、一織が出てき。
二人で階段を下りる。三月の足取りはさっきよりも軽快なものに変わっていた。

一織は誰にも見られることのないトイレで、壁にもたれかかった状態で、腰が抜けたようにずるずると腰を落としながらしゃがみ込む。さすがにその場に座り込むのは汚いからしないが、気分的にはしたい気持ちだった。
「…。はあ。」自分一人しかいない空間だというのに、どう言葉にしていいのか分からないほど自分が動揺していることに呆れる。口にしたい気持ちは溢れて止まらないのに、
この感覚、この感情。知らなかったわけではない。むしろ、ずっと昔から知っているくらい。でも改めてはっきりといわれてしまうと、救いの糸がぷっつり切れたような、底知れない絶望感が這い上がってくる。
「そんなこと、いまさら聞きたくなかったです。」なんで、このタイミング。もう私はすべてをかなぐり捨てて賭けに出た後なんです。それなのに、なぜ。
「兄さんと、ちゃんと話をしなかったから?」
仮説というにはあまりに単純で稚拙にすら見える。でも、極めて本質的な気がした。
兄にアドバイスやマネジメントすることを辞めるように言われる度、解決策を探った。そこに、兄の意見はなかった。一人で考えていたから。でも、仕方ない。兄と話せば、マネジメント行為そのものが根本から揺らぐ。
客観的に見て、私のマネジメント能力に問題がないことが、これまでのidolish7の活動で分かってきた。なら、低く見積もっても物事を進めるために採用を検討するくらいはするべきだと判断できるはず。でも、兄さんはきっとしない。コンマ1秒で却下されるだろう。そのこと自体は何も悪いことじゃない。重要なのは事実なのだから。…事実だから?
一瞬、自分の頭の中にハテナが浮かんだが、無視した。

自身の能力に問題はないが、コントロールできる範囲外の問題で、三月へのマネジメントはあきらめざるを得ない。なら次の候補を探すのが定石。
「わかってます、わかってますよ…。」一織は顔をゆがめ、頭を抱える。
理屈として通っているはずなのに、なぜか中々覚悟が決まらない。頭で理解しようとするたび、なぜかしがみつきたくなる。
少しして、頭をつかむ両手から力を抜く。はらりと髪が落ちてきて、一織の目を隠した。
結局10分くらい、その場でしゃがみ込み続け、気が済んだのか、急にふっと立ち上がって、しっかりした足取りで出ていく。何を差し置いてでも、抜け出して輝くための覚悟を持って。
そのための第一歩として、彼はまず初めにすべきことを決めていた。

自室をノックし、三月と軽い会話を交わして部屋に一人にさせてもらう。
耳を澄ませて足音を聞き、三月が十分に離れたことを確認して、彼は足早に机に向かい、唯一カギのかかる棚を開けて、中から一冊のノートを出した。
「…。」
これからしようとすることを考えると、躊躇してしまって、見るつもりのないノートの中身をパラパラとめくってみてしまう。
「身長や顔立ちなどの外見、そしてキャラクターから可愛い系で売り出すべき。可愛い系の中でも…」
三月に怒られた内容の文章が目に飛び込んでくる。そのノートは一織が大切に書いて持っていた、三月についての分析ノートだった。このノートには客観的に見た彼の長所と売り出し方、マネジメントの実践方法のシナリオなどが所狭しと書かれている。
一織はそれをごみ箱に投げ捨てようとして、また思いとどまる。
生まれたころから、自分の前を行く男の子がいた。彼は自由に呼吸していた。それは、自らの知性で溺れる一織にとって、希望であり、愛であり、願いだった。だからそれらをたくさんたくさん集めて紙束に書き綴って、積み上げて、本人以上に彼の素晴らしさを知っていった。他の何にも期待しなくても、それひとつで目がつぶれそうなほどの光を放っていて、そのことを知るのは彼だけ…。そういう、甘美な世界。彼と一緒に、2人でなら誰もみたことないような果てしない海を冒険していけると錯覚しそうな、そういう感覚。
そうして、彼は世界を好きになっていった。

でも、人よりも大人に生まれついてしまった彼は、手放しで好きにおぼれられるほどの子どもでいられなかった。
だから一織は、自分が好きでも、向こうから好きが返ってくるわけではないと、自分の気持ちがまるで片思いのようにそのまま終わってしまうかもしれないと、恋という単語すら知らない年頃から悟ってしまっていた。彼は甘やかな世界に期限があると知ってしまっていた。

投げ捨てようと振り上げた腕を力なく降ろす。
嫌われたって、辞めることは出来ない、彼にできるはずがなかった。
ノートの中だけで、妄想だけにとどめれば今後も続けていける。でも、妄想の世界だけでそれと暮らすには、彼は少し成長しすぎた。知りすぎて、大人になってしまった。
経験の有無はともかく、人と人の間、もしくは人と何かの間で、愛をはっきりと求めあえる関係性がいくらでもある一方、自分の愛情はおろか、好きすら認められない関係性がだんだん耐えられなくなっていた。
私の願いはそんなにも、異端なものですか。そう問いかける声が彼の頭の中にずっと響く。
好きになったからといって、それが返ってくる理屈も道理も無いとわかっているのに。

彼は悩みに悩み、結局ノートの残りの白紙部分をすべて切り落としてこれ以上何も書けないようにし、表紙に最終稿と書き込んで、鍵付きの棚にしまい込み鍵をかけた。気休め程度の願掛けだとわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
そして、自分の覚悟の決まらなさに、辟易して落ち込んでいた。
改めて、家から持ち出すもの、自分が家を出て独り立ちしても家に残しておいてほしいもの、そして処分するもの、それらを分けようとする。といっても、残っている物は持っていくのか置いていくのか、それとも捨てるのか決めきれない物ばかり。
特に、二段組のチェストの中身は、彼にとって大事なのに邪魔で、持っていきたいのに置いておくどころか捨ててしまったほうがいいのでは…。と思わせるようなものばかりはいっていた。
「…。どうすればいいんでしょうか。」そんなことを悩んでいると、扉がノックされて、
「一織。父さんたちが呼んでる。お茶しようって言ってる。」
と三月が一織を呼んだ。

お茶しよう、といいながら、4人が飲んでいるのはコーヒーだった。これじゃコーヒータイムですね、と一織が心の中で勝手にツッコむ。
父親が焼いてくれたクッキーを食べコーヒーを飲みながら、両親というか母親から昨日のライブについて、熱量と愛情たっぷりな感想を胸焼けしそうなくらい受け取った。そして、近況や実家を出た後のことなどを色々と聞かれた。久しぶりにあった子どもと親の会話そのもの、という印象。
しかし、私たちには機密保持や守秘義務などがあるせいでかなり話しづらい。それは兄さんも同じらしく、ことあるごとに「機密保持があるから、詳しく言えないけど、」とか「一織。○日前の…そうそう、その話。あれって、話せる?」と聞いてくるのだが…。
「兄さん、流石に私も法に沿った厳密な判定は出来ないですよ、法律の勉強はほとんどしていないので、私も兄さんと同様全く分からないです。なので兄さんが分からないなら私も分からないので、安全を取って話さないことを勧めます。」
判断が面倒になってきたので、放り投げた。
「ええ?!それじゃあ、何も話せないじゃん?!」
「極端な話、そうですよ?!それくらいアイドルはデリケートな存在なんですから!」
「わかってるけどさあ、でも家族とだけいる時くらい、自由になりたいよなあ。」
「だからって話したらダメですよ。」
「分かってる、わかってるって。話さないから。メンバーのためにも自分のためにもね。」
「話したいなら、アイドルとしての身内に話すべきです。」
「どういう…ああ、メンバーに話すってことね。でもメンバーとの思い出をメンバーに話すのは面白くないどころか変だろ。」
そこで母親が二人に話しかける。
「家族の話を友達になんでもかんでも話すわけではないように、アイドルの話もしていい部分としてはいけない部分があるってことなのね。」
「そうです。母さん。」
「そう…。アイドルって大変なのね。悪い話ならともかく、良い話もできないっていうのはちょっとかわいそうだし…少し寂しいね。二人にはその気持ち以上に成功してほしいって思ってるから大丈夫だけど。」
それでも少し寂し気に母親が笑う。一織が何というべきか迷っていると、三月が慌ててフォローに入った。
「で、でも、母さん!オレと一織とその友達の普段の話は出来なくても、ライブでかっこよく歌ったりテレビで皆を楽しませたり、それ以外にもラジオとかCMとか。今はネットでやってるだけだけどそのうちやると思うからさ、多分、遠くで一人暮らしするよりもはるかに多く、俺たちの姿を見せるから。だから、大丈夫だよ。」
「大丈夫大丈夫。三月、そんなに心配しないで、分かってるよ。私は二人が家を出て社会人になって、まあ、一織はまだ高校生と兼業してるけど、新しい土地でいい仲間と出会って、社会で立派に活躍し始めているだけで、それだけで十分嬉しい。十分。」
「本当?」三月が訝しむ
「本当だって。でももし、どうしても気になるっていうなら、日本一のアイドルになるのを目指して。それで、私たちだけじゃなく、日本のみんなを幸せにしてあげて。勿論、一織もね。」
わかった、と威勢よく返事する兄に続いて、「…はい。」とだけ答えた。
一織の一瞬の迷いを父親がじっと眺めていた。
兄弟の近況の話はあまりにしづらいということで、家族はクッキーとコーヒーをつまみながら、二人が実家を出た後、実家にどんなお客さんが来たのか、や、お店で働いてくれているスタッフさん、ななこさんを含めた、お店を大事にしてくれている常連さんのことなどを話す。特注のケーキの話とそれにまつわる人間関係の話、お店で働いているスタッフさんの人間模様や身近にいないとわからないような小さい変化などなど。
そして常連さんの話になったとき、三月がそういえば、といってさっき母親から渡された紙袋と、その経緯を簡単に一織に話した。三月がさっきそうしたように、一織も母親にメッセージの代筆を頼んだ。

「流石だな…」父親が若干引き気味に、空になったクッキーの大皿を洗う。甘いものに小さいころから触れながら、すくすく育った食べ盛り男子2人の胃の許容量は尋常ではない。
「これ、余らせて持って帰ってもらおうと思ったのに…。流石に数枚くらいは残ると思ってたのに。」
「父さん、気にしなくていいですよ。」コーヒーを飲み終えて空になった4つのマグカップをもって、父親の隣に立った。
「二人に会いにまた帰ってきますから。今生の別れではないんですし。」
「重いな。流石にそこまでは思ってない。寂しくないわけではないけどな。」
父は皿の泡を水で洗い流す。さらさらと水が流れて排水溝から流れ落ちていく。
「重いですか?」
「まあ、家族内で使うならいいと思うが、友達に対しては安易に使うのを控えたほうがいいな。一織、マグカップ。」皿を水切りに置いて、一織からマグカップを受け取る。
「でも、今はまだ使ったことないので、安心してください。」一織の脳内に陸のことがよぎった。
「そうか。」一織から受け取ったマグカップをスポンジで洗っていく。そして泡だらけのコップが1つ、シンクに置かれる。
「一織。次に俺が洗うのはどのマグカップだと思う?」父はシンクの上に残った、まだ洗っていない3つのマグカップを指さした。一方、一織は急に変な質問だなと思うが気にせず答える。
「えっと、一番手前の物ですか?」
「残念。こっちだ。」そういって、父親は一織が指定したものとは別のマグカップを手に取った。
「一織。オレはなんでこれを選んだと思う?」マグカップを洗いながらまた質問する。
「ええ…?わざと私の答えを間違いに刷るためですか?」
意地悪な問題だな…と心の中で呟く。
「そう見えるよな。答えは、俺がこれを洗おうと思ったから。」淡々と、次のマグカップを手に取って洗う。
「その答えは酷くないですか?」反則では?とすら思った。
「なぜ?」「だって、推測のしようがないじゃないですか。」
「そうさ、だから分かりようがない。」
「はい、そうですよね。」
彼は、それ以上にこの話に何の意味があるのか、のほうが気になっていた。
「で、一織。今の質問にお前は答えられなかったわけだが、悔しかったか?」
遂に、最後のマグカップを洗い始める。
「悔しいわけがないです。分かりようがない問題に正解できるかどうかは、もはや確率次第のものじゃないですか。」話の意図が分からず、彼は苛立ちを覚え始める。
「そうだね。じゃあ一織。単刀直入に聞くが、お前が三月をプロデュースすることは正しいことだと思うか?」
胃が、ずんと重くなる。息が詰まる。「…。えっと。」答えるための言葉を持たなかった。
「一織は真面目だな。賢くて、優しいな。だから、三月のことになると、考え続けてしまう。難しいよな。だからな、一織。」
泡だらけになった4つのマグカップに重曹をかけて、自分は手を洗って皿洗いを終えてしまった。
「人との関わりの中でも、考えたことや分からないものをそのまま抱えて、一度あえて考えずにそのまま置いておく、という選択を覚えてみなさい。定期テストの問題で、難しいものは後回しにするように。」
「後回し…ですか?」
「そう。大丈夫、一織は真っすぐで優しい人間だから、悪いようにはならない。」
父親は息子の頭を優しく撫でた。自然と一織の目線が下を向く。
「君たち兄弟は、本当に良い子たちだから。」
されるがまま、黙って一織は頭を撫でられていた。戸惑いと安心に揺れる目が、髪の隙間から見え隠れした。

その傍らで、三月はリビングのテレビで母親に昨日撮影したばかりのライブ映像(なぜか、テレビ局が撮影した生の映像をほぼ即日でもらえた。)を見せていた。ダンスや歌、それぞれで頑張ったことや苦労したことなどを、一織を除く他のメンバーの話の暴露にならない範囲で沢山話していた。母親は母親で、映像やネットの番組の録画や動画を一つ一つ見ていき、三月と一織のことをメインにしつつも、idolish7のメンバー全員の良いところを語っていた。その声はキッチンにも届いていて、二人が時折一織のことをべた褒めするのを、一織は聞いていた。
マグカップを洗い終わった後、父親は二人に合流して一緒にテレビを見ていたが、一織はキッチンに残り、作業用の椅子に座ってさっきの会話の余韻に浸りながらも考え事をしていた。そんなとき、ふと気が付く。

ああそうだ、今の私にはマネージャーと七瀬さんがいるじゃないか。
…そうか。そうすればよかったんだ。
一織の中で、答えが浮かび上がってくる。それを忘れないように彼は何度も頭の中で反芻する。これなら自分にも兄にも過度な負担がない。私がすでに立てた計画とも相性が良い。ただ…。
少し体勢を変えて、一度目をゆっくり閉じて、開けて、キッチンから三月を眺める。
テレビを見ながら笑う兄を遠くから眺めて、つぶやいた。
「人間関係って、ままならないですね、兄さん。」

太陽が傾き夕方に差し掛かろうとしてきたころ、兄弟が入っているメンバーのグループラビチャに、これからの活動の景気づけのパーティーをするから帰ってきて、というメッセージが入った。その時には一織もテレビの前に来ていて家族全員でライブ映像を見ていた。一織は通知音に気づいてラビチャを開き、メッセージを読んで三月に声をかけた。
「兄さん、パーティーをするそうですよ。」
「また?」
「主に未成年組が、昨日の飲み会を楽しめなかったそうで。だからやり直しです。」
「アッ…。いや…マジで…ごめん…。」元々小さい三月が、さらに小さくなる。
「三月、呑みすぎじゃない?」
「ハイ…これから…気を付けます…。」母親から小さく呆れられ、三月は更に小さくなる。
「じゃあ今日は、三月が寮で皆をもてなすのか。」父親も、のっかってくる。
「そうなんですか。良いですね、それなら早めに帰らないといけませんね、兄さん。」
「なあ、一織、みんな気にしてないんじゃなかったのかよ…。」
「私の読みが外れたようですね。」「まじかよ。」
「でも、私は楽しかったので、全然気にしなくていいですよ、本当に楽しかったですから、兄さんも可愛、えっと、チャーミングでしたし。」
「あら、お兄ちゃん可愛かったの?」「、まあそうですね。かわいかったです。とても。」
「一織、もう、いい、いいんだ…。それ以上言わなくていい…。」三月は遂に両手で顔を覆った。
それで、兄弟は想定よりも早く家を出なければならないことになった。
「…。一織、オレ、ちゃんと寮の未成年たちをもてなすからさ、早く荷物をまとめてくんない?」覆った両手を少し下にずらし、目だけのぞかせ、普段とは明らかに小さな声で一織に言った。
「分かりました。」そういって、一織は少し考え、「急いでやりたいので、兄さんも手伝ってもらえますか?」と言った。
「ああ、もちろん。今からするか?」「今すぐにしましょう。」
一織には、しなければならないことがあった。

三月は、何とも言えないもの寂しさを抱えながら一織の後についていく。階段を上って、一織の部屋に二人で入った。
すると急に一織が振り返って「兄さん」と一織から声をかけられた。その様子があまりに真剣で深刻そうに見えたので、三月は少し身構える。
「なんだ?」
「兄さんは素晴らしい人間です。いるだけで皆を笑顔にできる。そんな兄さんは絶対にみんなから愛されるべき。貴方はそういう人です。」
何を言い出すのだろうかと思えば…。なんか、いつも以上に気合の入ったラブコールを言われたなあ…。
「お、おう、ありがとな?まあ、そういわれるのはうれしいよ。」
話の流れが見えなさ過ぎて、流石の三月でも会話をどう続けたらいいのか分からなくなる。
「だから、絶対アイドルを辞めないでいてくださいね。兄さんを信頼しますから。」
なぜか、一織の語気がどんどん強くなっていく。
「あ、はい。えっと?もちろん俺はやめないよ?絶対やめない。」
…あれ、今信頼すると言ってくれた?
今まで色々と心配をかけてきた一織が、オレのことを信頼すると、言ってくれた…?
驚きで三月の目が少し大きくなる。
「…それが聞けて安心しました。これからも私の大好きな、ありのままの兄さんでいてくださいね。」
そういって一織が微笑んでいる。
なんだこれ…。呆気に取られて、何と答えたらいいのかよくわからない。今まで、オレの事を常に心配してきた一織が、急に手をひっくり返して信頼していると言い出す。訳が分からない。
「…ああ、まぁ、そうだな。そのつもりだよ」
何かあったのか、と聞きたくなる。でも、聞いていいのか分からないし、なんか、聞きたくない。でも、それ以外何を話したらいいか分からない。
…そう思うくらい三月はそこに意識を囚われてしまっていた。

「…あのさ一織、改まって信頼するとか、アイドル辞めないでとか、言ってきてどうしたんだ?」
「…それは、なんとなくですよ。」
照れ笑い…ではない。もっと、いろんな感情が複雑に入り組んでいるような気がする。泣きそうとも、ほっとしたようにも、悔しそうにも、でも晴れやかなようにも、見える。
なのに、オレに何の意味も伝えてこない文章をしゃべるなんて、そんなわけあるか。
脳みそが理屈でできている人間が、無意味にそういう表現をするなんて、あり得るのか?

「何となく、なわけないだろ一織。お前みたいな賢い奴が、そんな風に『なんとなくですよ』なんて、いうわけない。」
表情や声色と話した文章のずれ具合や、直接言うタイプの一織が妙に繊細な表現を使っていることなどが、気持ち悪く感じてしまって、聞くはずもなかったことを聞いてしまう。聞けば自分が傷つくって分かってるのに。
ほら、目の前の一織が戸惑っている。分かってんだ、一織も。

「ごめん、変なこと聞いたな。作業再開しよっか。何したら…」
と、一織が割り込んで話してきた。
「あの!兄さん、変なことを聞いてもいいですか。…私は兄さんのことが好きですが、兄さんは私のことどう思ってますか?」
…ん?
理解が追い付かないまま、それでも、質問に答えた。内容自体は難しくないから。
「もちろん大事だし、好きだよ。当たり前だろ?」
変な質問だな、わざわざ聞くまでもないのに。と思った。
「そう…そうですか…安心しました。」
「…なんかわかんねぇけど、安心できたならよかったよ。」
「ごめんなさい、兄さん。混乱させたでしょう、私にコミュニケーションスキルが無いばっかりに。でも…。私はありのままの兄さんのことが好きで、尊敬しています。今言えるのは、それだけです。」
すみません、兄さん。と一織が言う。オレのわがままに付き合わせてるな、と感じる。
でも、今はそのままでいいか、と、なぜか素直にそう思える。
「…。いや、気にすんな。それより、信頼してくれるって言ってくれてありがとうな、一織。」
「いえ、気にしないでください。…これからもずっと仲良くいましょうね。」

二人は簡単に掃除をする。三月は手を動かしながら、今日のことを思い出していた。
おばさんも、両親も、一織も、みんな変わっていく。みんな、離れていく。
おばさんや両親との変化は別れっていう感じがするけど、でも一織との変化は別れという感じがしない。これからきっともっと仲良くなれる気がするから。でも、なんだかな。正直、少し寂しい。
一織に気づかれないように、ちらっと一織を見る。
案外、お前にがんじがらめにされる日々も悪く無かったのかもな。
けど、オレはオレなんで、お前の思う形にはなれないし、なるつもりもない。
でも、オレはお前のこと、尊敬してるよ。

兄弟は10分もかからずに荷物をまとめ、作業開始から15分後にはもう玄関にいた。
両親との会話もそこそこに、2人は玄関の扉のドアノブに手を掛ける。

「じゃあ、また。」
二人はガチャリと、扉を開けた。

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