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じわじわ、じわじわ。
容赦なく肌を刺す鋭い日差しと、耳をつんざくような蝉時雨を浴びながら、環は黙々と手を動かした。汗で肌に張り付くワイシャツが気持ち悪い。でも、急いで帰ろうという気にはならなかった。熱射も浴びてもどこかひやりと冷たい石の感触を雑巾越しに感じながら、別れて久しい母の面影を追う。ここに母が眠っているとのだと思うと、どんなに暑くてももう少しだけ、この場に留まっていたいと思ってしまうのだ。
先日、環の通う七星学園は夏期休業に入った。芸能活動をするクラスメイトも多いため、この夏はどこそこにロケに行くだとか、南の島で雑誌の撮影があるだとか、各々仕事の予定を雑談程度に交わしながら友人たちと手を振って別れた。
環とてこの夏は多忙だった。レギュラー番組のスペシャル版の放送に向けて、朝から晩まで番宣に駆り出されることになっているし、晩夏に控えたライブの打ち合わせにリハーサル、己が考えた振り付けも最終調整をしなければならない。壮五が管理している共有のスケジュールアプリを眺めながら仕事の予定を確認していると、ふと目に入った文字に深いため息が漏れた。環くん、補講。壮五が入れてくれたその予定は明日から1週間分のマスをすべて埋めていた。仕事で欠席のことも多く、一織と違って成績も芳しくない環は、夏期休暇に入ってから1週間ほど補講の予定を入れられていた。勉強は嫌いだが、この補講のためにスケジュールを調整してくれたマネージャーや、王様プリンをご褒美に買ってくれると言った壮五の顔を思い浮かべると、怠惰な心が薄れていく。たったの1週間、勉強に耐えるだけだ。一織も宿題は手伝ってくれると言っていたし(うさみみフレンズのマスコットで買収済みだ)、補講は夕方までかかるが、最終日は半日で終わる。自分へのご褒美に、帰りはゲームセンターに寄っていこうかと考えた環は、そこでふと、自分には盆休みがないことに気がついた。母に会いに行けるチャンスはそこしかない。勉強に対して前を向きかけた気持ちがふっと凪いだような気がした。
1週間分の補講を無事に終え、環は電車を乗り継いで母が眠る霊園にやってきた。正月に来たきりであったため、墓石は雨や土ぼこりですっかり汚れている。持参した雑巾を水に濡らし、固く絞って丁寧に拭いていく。顎の先から大粒の汗がぼたぼた滴るのを拭いもせず、環はひたすらに墓石を磨いた。手にした雑巾が真っ黒に汚れた頃、つるりとした光沢を取り戻した墓石をそっと撫でる。母ちゃん、なかなか来られなくてごめんな。心中で謝りながら、紙袋から仏花を取り出して丁寧に供える。果物の類は持ってこなかった。持参するとなればきっとあれもこれもと際限なく買い込んでしまうことは目に見えている。お菓子は食べきれるだけにしなさい、とよく言われていたことを思い出し、母の言いつけを守ることにしたのだ。ただ、数週間もすれば、きっと両手に抱えきれないほどの供物を持って妹がここに来るだろうけれど。
墓前で手を合わせ、そっと目を閉じる。母に話したいことはたくさんあったが、どれから話せばいいかわからなかった。西に傾き始めた陽光に時間が限られていることを悟り、心内での対話を諦める。目を閉じたまま、母の笑顔を心に浮かべた。その人を思い出すだけで、故人への供養になる。先日、ロケで訪れた寺院の住職がそう言っていたのを思い出したのだ。壮五と2人で駆け回り、やっとの思いで手に入れた1枚の写真。そこに写る笑顔と寸分違わぬ母の優しい眼差しが、まだ記憶の中にある。まだ、母を覚えている。ほっとしたのも束の間、柔らかい母の声を思い出そうとして、ひやりと体の芯が冷えた。
たあくん。
母の声が聞こえる。でも、でも、こんな声だっただろうか。もっと高かったような、もっと穏やかだったような、もっと、もっと。思い出そうとすればするほど、記憶が色褪せていくような気がして、環は母の声を反芻することをやめた。声の記憶は薄れやすいと聞いたことがある。仕方がないことだということもわかっている。けれど、母の欠片が自分の中から消えていくことが堪らなく恐ろしかった。
ごめん、母ちゃん。ごめん、ごめんな。
逃げるように霊園を後にし、電車を乗り継いで寮の最寄り駅へと向かう。その間、腹の底にはずっと居心地の悪さが居座っていた。誰も悪くない。こんなことで母が目くじらを立てたりするはずもない。むしろ、鷹揚に笑って許してくれるに違いない。ただ、自分が嫌なだけ。ホームビデオでもあればよかったと思うけれど、写真1枚でさえ満足に残しておけなかった自分に、映像なんて保管しておけるはずもない。記憶が保存できたらいいのに。この心の内が、そっくりそのまま永久に残せたら、どんなにいいか。
気づけば最寄り駅に着いていた。どうやってここまで来たのか、子細をあまり覚えていない。ICカードをかざして改札を通り抜け、寮への道を辿ろうと足先を向けた。
「お母さん!」
母を呼びながら、幼い子どもが環の横を駆け抜けていった。反射的に目で追いかけると、優しそうな女性が両手を広げて我が子を受け止めたところだった。親子は何事か言葉を交わしたあと、手をつないで環に背を向けて歩き出す。
自分にも、あったのだろうか。母を呼びながら必死に駆けて、その優しい腕に抱きとめられたことが。手を繋いで家路を歩いたことが。思い出せないけれど、きっとあったのだと信じたい。そうでないと、腹の底から這い上がってくる焦燥にも似た何かを、飲み下すことができそうにないから。
「環くん?」
ハッとして振り返る。改札から出てきた壮五が不思議そうに目を丸くしていた。喪服を思わせる黒いサマージャケットを羽織っている。どこに行っていたか、聞かなくてもわかった。
「そーちゃん…」
「補講、今日までだったよね。お疲れさま。そこのスーパーで王様プリン買っていこうか」
「うん…。そーちゃんは、さ。叔父さんとこ行ってたん?」
「よくわかったね。実はそうなんだ。これから忙しくなるし、今日しか機会がなさそうだったから」
壮五が自分と同じことを考えていたと知り、そわそわと蠢いていた心の内が少しだけ落ち着いた。
今の自分には、壮五がいる。さびしい気持ちをわかってくれる人がいる。自分と似たようなさびしさを抱えてきた年上の相方。唯一無二の、俺の相棒。そーちゃんがいてくれれば、大丈夫。さびしくなったって、そーちゃんが、そばにいてくれれば。
「そういえば、叔父さんのところに行ったあと、実家に寄ったんだ」
ヒュ、と隙間風のような音がした。自分の喉が僅かな空気をぎこちなく通していく。
「父は会合で不在だったんだけど、母が渡したいものがあるって連絡をくれてね。祖父の書斎を整理していたら、叔父のCDが見つかったらしくて。僕が持っているのとは別のアルバムみたいで、聴くのが楽しみなんだ」
環の好きな、優しい笑顔で嬉しそうに言葉を紡ぐ壮五。普段なら、よかったなと笑い返すところなのに、今は上手くそれができない。隙間風のような浅い呼吸を繰り返しながら、ガラス越しのようにどこか遠くから壮五の声を聞いていた。
「夕食のあと、ゆっくり聴こうと思ってるんだけど、環くんも一緒に…」
「ごめん」
弾んだ声を、たったの三文字で叩き伏せる。我ながら、ひどい声だと思った。怒りに任せたような、それでいて縋るような、けれど吐き捨てるような。大嫌いな、父親が出す声に似ていた。
「ごめん、おれ…ちょっと疲れちった…から、先帰る、な」
その場に固まる壮五を残して、環は足早に寮への道を歩いていった。
寮に帰ってからすぐにシャワーを浴び、キッチンに立つ三月やゲームに誘う陸の声を振り切って自室に引っ込んだ。珍しく鍵までかけてベッドの上で丸くなる。王様プリンのぬいぐるみを抱えて、そっと息を吐いた。食事もとらず部屋に籠もるなんて、何かあったと言っているようなものだ。優しいメンバーに心配をかけてしまうことはわかっているけれど、今、誰かといると自己嫌悪で死んでしまいそうだった。感情のコントロールが上手くできない。何かあったわけじゃない。悲しいことなど何もない。自分には家族とも等しい仲間がいて、気の置けない友達もいて、ずっと一緒にやっていくと約束した相方もいる。今が幸せならそれでいいではないか。母の記憶が薄れていくのは仕方のないことだ。人はそうやって過去を清算していく。写真が見つかったとき、これがあるだけで幸せだと思ったはずだ。声まで残したかったなんて、そんな贅沢を思ってはいけないのに。
机の上の写真立てから、笑顔の母が環を見ている。いつもは心があたたかくなるはずのその相貌に、責められている気がした。呼吸が浅くなる。ひゅうひゅう。隙間風のような音がする。ひゅうひゅう。不確かな記憶が母の声を再生する。ひゅうひゅう。どうして忘れてしまったの。たあくん、どうして、たあくん。
コンコンコン。
ビクン、と体が跳ねた。全力疾走したときのように息が苦しい。心臓が耳の奥で鼓動を鳴らしている。汗だくの背中にTシャツがぺたりと張り付いて気持ちが悪い。起き上がって深く息を吸い、吐いた。氷が溶けるように、体中から力が抜けていく。どこかほっとしたのも束の間、また扉からノックの音が3回聞こえた。規則的で丁寧な、この音は。
「環くん、壮五だけど…。ちょっと話せないかな?」
扉越しでいくらかくぐもった声が環を呼ぶ。すぐには言葉が出なかった。わけもわからず目の奥が熱くなる。吐き出しかけた声がみっともなく震えた。
「…………、」
「…環くん、少しだけ聞いてほしい」
胸元に抱えた王様プリンを、さらに強く抱きしめる。聞きたくない。これ以上、自分の内側をぐちゃぐちゃにされたくない。耳を塞いでしまいたかったけれど、壮五の透き通るような美しい声が、それをさせてくれない。いつだって、環はこの声に、救われてきたのだ。
「…今、君が何を思って、何を感じているのか僕にはわからない。でも、これだけはわかる。僕は、君を傷つけた。君の心を慮ることもせず、…家族の話を、してしまった。僕の勘違いだったらいいんだ。でも、そうじゃないなら…謝罪させてほしい。ごめんなさい。ごめんね、環くん」
ぐっ、ぐっ。喉が鳴る。噛み殺して飲み込もうとした嗚咽が、歯列の隙間から勝手に漏れていく。謝るなよ。そーちゃんのせいじゃない。弱っちい俺が悪いのに。とめどなく溢れてくる涙が枕の色を変えていく。涙で頬が冷える。喉が塞がって声が出ない。ドアノブがガチャリと音を立てる。先ほど回したサムターン錠が、壮五の入室を阻んだのがわかった。鍵をかけていてよかったと思った。こんな姿、壮五にだけは見せられない。
「…落ち着いたら、ご飯を食べにおいで。冷蔵庫にカレーと、王様プリンが入ってるよ。それから、また明日…きちんと話をさせてくれると嬉しい。…おやすみ、環くん」
パタパタと床を鳴らすスリッパの音が遠ざかり、隣室の扉の開閉音が微かに聞こえた。壮五がいなくなってからも、環は止まらない涙と嗚咽を飲み込もうと、強く枕に顔を押し付けた。
わかってくれた。環の態度だけで、環の心が血を流し始めたことを、壮五はわかってくれた。やっぱり、壮五は環のさびしさを理解してくれる。ひとりぼっちではないと思わせてくれる。欲しい言葉をくれて、環を優しさで包んでくれる。そーちゃんがいてくれれば、大丈夫。さびしくなったって、そーちゃんが、そばにいてくれれば。
『夕食のあと、ゆっくり聴こうと思ってるんだけど、環くんも一緒に』
嬉しそうな壮五の声が蘇る。今、隣室で壮五は叔父のCDを聴いているのだろうか。血塗れの心をどうしようもできず泣きじゃくる自分を放って、家族との繋がりを噛み締めているのだろうか。そう思ったら、憎悪にも似た醜いものが腹の底に渦巻き始めた。そうだよ、そーちゃんのせいだ。そーちゃんが嬉しそうに、家族の話なんかするから。俺は母ちゃんの声を忘れていくのに、そーちゃんは叔父さんの声がいつでも聴ける。そんなの不公平だ。そーちゃんは、俺とおんなじ、さびしい人間なのに。そーちゃんだけさびしくなくなるなんて、そんなの。
ぼんっ。宙を舞った王様プリンが扉に叩きつけられる。柔らかい綿の塊は大した音も立てずに床に落ちた。自分が信じられなかった。
壮五の幸福を願いはすれど、不幸を求めたことなど一度もない。壮五が顔を曇らせていれば力になりたいと思ったし、壮五が笑えばもっと笑わせたいと思った。それなのに、今の環は。
「ごめん、そーちゃん。ごめん…!」
壮五だけがさびしさを克服するのを、ずるいと思った。環を置いていくことを、許さないと。そう思った。自分が醜悪な化け物になっていくようだった。怖い。心はどんどん切り刻まれ、掻き回されて、原形が分からなくなっていく。怖いよ、そーちゃん。たすけて。そばにいてよ。ひとりにしないで。
石板のようにじっと動かない扉に目を向ける。つい今しがた、開かないことに安堵したというのに、どうして開けてくれなかったのかと糾弾したくなる。鍵までかけて閉じこもったのは自分だというのに、回らないドアノブに諦めてあっさりと引き下がった壮五の肩を揺さぶってやりたい気持ちだった。どうして諦めたの。あの時みたいに、鍵ぶっ壊してでも入ってきてよ。そーちゃん。そーちゃん…。
喉の渇きを覚えて意識が浮上する。暗闇に慣れてきた目で目覚まし時計を見れば、草木も眠る時刻。丑三つ時だった。
夕食もとらずに眠ってしまったからか、喉はカラカラ、腹もぺこぺこだった。いくらか落ち着いた心の内を自覚して、ひとまずキッチンに向かおうとベッドから降りる。アイドルがこんな時間にカロリーを摂取するなんて、一織が知ったら目尻を吊り上げて説教されそうだ。今日だけは許して、いおりん。サムターンを回してドアノブに手をかけ、扉を引いて廊下へと出た。
廊下の床は夏なのにヒヤリと冷たかった。その冷たさを足の裏で感じながら、ふと隣室の扉に目を向ける。ぴたりと閉じられたそれは環を拒絶しているようだった。それでも、そっと近寄り、ドアノブに手をかける。少し力を加えると、拍子抜けするほどあっさりと回った。内側に押し開く。誘われるように室内に入った。
部屋の中は静かな宵闇に包まれていた。微かに、規則正しい寝息が聞こえる。そろりそろりと、ベッドのそばまで歩を進める。膝をついて覗き込むと、部屋の主が仰向けの状態で死んだように眠っていた。ユニットを組んだばかりの頃、就寝中の壮五がぴくりとも動かず、あまりにも静かだったものだから、よく口元に手をかざして呼吸をしているのを確かめていた。あの頃と同じように、凪いだ寝顔の上に手のひらを浮かせる。そよ風のようなあたたかい呼気が、環の手のひらをするすると撫でていった。壮五の体に触れないように、ベッドの上に頭を預ける。胸が規則的に上下している様をぼんやりと眺めながら、確かに今、壮五が生きていることを実感した。
「………っ、う、…ッひ」
泣き尽くしたと思っていたのに、勝手に涙が溢れてくる。母が死んでしまってさびしい。その声を思い出せなくなってさびしい。壮五が、自分と同じではないのだとわかってさびしい。切り刻まれた心は相変わらず血を流し続けている。それでも、この涙は先ほど流したものとは別物だ。だって、こんなにも、火傷しそうなほどに、熱い。
「たまきくん…?」
夢に溶けかけた声で名前を呼ばれる。濡れたシーツから顔を上げると、菫色の瞳が僅かに見開かれた。するりと上体を起こした壮五は、環の頬にそっと触れた。
「こわい夢をみたの?」
「………、っ…」
「だいじょうぶ。君は、ひとりじゃないよ」
堪らなくなって、目の前の薄い腹に顔を押しつけた。骨感の目立つ細い腰に手を回す。折れてしまいそうに儚げなそれは、じんわりとあたたかかった。
死んだ人間は、何をしたって帰ってこない。いくら望んでも、後悔しても、大事だと叫んでも、もう会えないことは揺らがない。母の欠片を懸命に繋ぎ直しても、いつかは薄らいでしまう。なくなってしまう。遺された者は、それを飲み込んで生きていくしかない。誰もが、そうやって前を向いている。それはわかっている。それでも。
「、さび、しい…っさびしいよ…そーちゃ、…」
環にはまだ、飲み込みきれない。未成年だからというのは理由にならない。だってきっと、妹はもう飲み込んでいるだろうから。いつになったら飲み込めるのか自分でもわからない。それができるまで、きっとまたさびしくなる。ひとりぼっちのような寒さに凍えてしまう。
でも、環には、壮五がいる。環と壮五のさびしさは違う。大きさも、種類も、感じ方も、きっとぜんぶが違っている。それでも、生きてそばにいてくれる。突き放されても自分を理解しようと声をかけてくれて、真夜中に起こされても嫌な顔ひとつせず頭を撫でてくれる。
壮五が生きていることが、環にとっての救いだった。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
囁くような、歌うような優しい響きだった。紆余曲折あってやっとの思いで手に入れた、母との大切な写真。それを初めて壮五に見せたとき、幼い環にかけてくれた言葉も同じだった。慈愛に溢れたような、柔らかな「大丈夫」の言葉に、幼い自分ごと抱きしめてもらったような気がした。
「おいで。明るくなるまで一緒にいよう」
夏用の薄い掛け布団をぺらりとめくり、壮五が壁際に体をずらした。その空けられたスペースに、吸い込まれるように潜り込む。少しだけ冴えた思考が、脳内に気恥ずかしさを連れてきた。そろりと壮五に背を向ける。めくった掛け布団を環の上にそっと被せ、壮五も環に背を向けた。傍らに感じる壮五の気配とあたたかさが心地よくて、環はとろりと目を閉じた。
「おやすみ、環くん」