なな利き2

A03 からいはかてい

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 寝起きは、あまり良くない方だ。十分な睡眠を取れている日であっても、頭が働くようになるまでは、多少人より時間を要する。幼いときからどうにもずっと直らない、ボクの欠点の一つだ。
 そんな自分の性質もあってか、折に触れて思い出す、忘れられない朝がある。
「りく……?」
 九条さんに引き取られた翌日、ある晴れた気持ちのいい朝のこと。

 陸と両親のもとを去った当日のことは、もうあまりうまく思い出すことができない。九条さんがせっかく家の中を説明してくれようとしていたのに途中で頭痛に襲われてしまって、ご飯すら食べず早々にベッドへ入ったことだけを覚えている。今にして思えば環境の変化への不安と、少なくはない後ろ髪を引かれる思いに、まだ未熟なボクの身体は耐えきれなかったんだろう。
 次に目を開いたら、もう朝だった。どう見ても知らない色の天井。実家の部屋とは違う向きから差し込んでくる日光。聞き慣れないアラーム音。
 まだ、夢を見ているのかもしれないと思った。けれどじわじわと足先からはいよってきた寒気が、ぼやける思考回路の中からも昨日の記憶を少しずつ引きずり出してくる。
「……あぁ、そっか。ここは、九条さんの家だ」
 そういえばもともと置いてあった時計が勝手に鳴っただけで、何時には起きておいた方がいいのかなども、何も聞かずに昨日は寝てしまった。もう九条さんは起きているのだろうか。挨拶を、いやとにもかくにも先に顔を洗おう。
 ふらふらとベッドを降り、途中二個ぐらい違うドアを開けてしまいながら洗面所にたどり着く。まだ目は半分も開いていないし頭も働いていないけれど、ここの説明は何とか覚えている。タオルは新しいのを自由に使って良い、歯ブラシはピンクのを買っておいたから使ってと言われたはずだ。自分の背丈ではまだ若干厳しい高さの棚に置いてあるタオルを、先っぽを引っ張って落としてくる。どう見ても高級そうなタオルに、少しだけ引っ張ってごめんなさいと罪悪感を抱いた。一個余分に落ちてきたのは……しばらく迷ってそばにあったラックの上に置いた。
 九条さんの家は、一人暮らしとは思えないほど広い。この洗面所ですら、本当なのかと思うほどにはスペースがある。周りに人の気配はなく、聞こえるのは自分がぽそぽそと歩くスリッパの音だけだ。無意識に体がぶるりと震えて、最後の数歩は駆け寄るように近づいて性急に水栓を上げた。
 「わっ」
 途端ざぁ、という音とともに、人肌の温かさのお湯が手の上を滑り落ちていく。なんとなく勝手に、冷水が出てくると思ってしまっていた。いつもなら心地よいと感じる温度なのに、今はどうしてか生き物が手の上を這いまわっているように思えて、反射的に手を引っ込める。くんと上体ごと後ろに引いた衝撃で、ボクはそのままよろけて後ずさった。水滴が弧を描いて、辺りに飛び散る。
(あ、)
 九条さんの家は前述のとおりとても広く、一つ一つがそれはそれは大きい。体勢が崩れたことでようやく相対した正面の鏡も、もちろんその例外ではなく。優に四、五人は映りそうな大きな鏡はボクを捉え、そしてボクはその中に––。
「りく……?」
 双子の弟の姿を見た。自分が家を出た理由。ずっと元気に笑っていてほしい人。この子のためなら、自分は何でも差し出すと決めた存在。
「陸! っ……あっ……」
 寝起きからの覚醒と絶望は、その時ようやっと訪れた。
 ここに、陸はいるはずもない。鏡に映っているのは……ただ最愛の弟に似た髪型の寝癖があるだけの、「自分自身」だった。
「そうだった……そう、だった」
 だらりと下ろした手から、ぱたりと雫がしたたり落ちる。同じように瞳からも雫がしたたり落ちそうになって、唇を噛んだ。
「天」
「!」
 がちゃりと扉の開く音がして、少し離れたところから声がした。
「起きてきたのか。おはよう。何か大きな声が聞こえた気がしたんだけど、大丈夫かい?」
 顔を拭って入口の方へ行くと、もう既にきっちりと身支度を整えた九条さんが立っている。
「だ、大丈夫です。おはようございます」
「そうか。なら良かった。あれ、なんでこんなところにタオルが……?」
「あ、それは」
「まぁいいや。後で戻しておくよ」
 口元にたたえた笑みとゆったりとしたしゃべり口に、なんとなく先ほどと違う涙が出そうになる。全身に血が巡り始めた感覚とともに、きゅうとお腹が小さく鳴った。
「あぁ、そうか。お腹が空いているのか。ご飯を作るよ。顔と歯を洗ったら、リビングにすぐ来ると良い」
「す……すみません。ありがとうございます」
「構わないさ。……さて。食べ物、どこかにあったかな」
「えっ」
 どことなくどころかかなり不安を感じる言葉を最後に残し、九条さんは踵を返してすぐに去っていった。これは、早く行って自分が何かをやった方が良い気がする。鏡の前に戻ってピンク色の歯ブラシを急いで手に取り、きょろりと周りを見渡した。……あぁ、そうか。もう一つ小さな絶望の小石を心に積み重ねて、大きなチューブを手に取る。
「……辛い」
 あの時の鼻にツンときた感覚が、今も忘れられない。でも、あの瞬間のおかげで本当に、目が覚めたともいえる気がしている。
 ここにはもうイチゴ味の歯磨き粉も、取りすぎたタオルを渡せる双子の弟も、同じ家にいだけで聞こえてくる両親の足音もない。ここは「九条さんの家」ではなくて、今日から「ボクの家」になるのだ。陸の病気を治すための費用を肩代わりしてくれる、これから親の代わりとなって全ての養育費を負担してくれる。それだけじゃなくて、一流のエンターテインメントを学ばせてくれる。そんな感謝の念と共に、自分はこの人と二人で生きていくのだ。
 心の小石は蹴散らした。覚悟は、もうできた。

☆
 アラームの音が鳴る。目を覚ます。ぼやける視界でとりあえずカーテンと窓を開けたら、ベッドに腰かけてまたちょっとだけうつらうつら。二回目のアラームでなんとか立ち上がって、軽くベッドを整えたら洗面所へ。
 棚の下から二段目にあるピンク色のタオルを取ると、ふわりと控えめな柔軟剤の香りがした。肌触りもほわほわで抜群。最近とても気に入っているタオルだ。うっかりそのまま顔をうずめそうになって、危ないと慌てて水栓を上げる。歯ブラシをカップから取ってもう慣れた場所にノールックで手を伸ばすと……想定外にスカッと空ぶった。
「あれ」
 そういえば、昨日の時点でもう中身がほとんどなくなっていたかもしれない。でも、捨てたっけ。というかそもそも、ストックって買ってあったっけ。
 のろのろと目線を上げると、目の前の鏡の中には今日も最愛の双子の弟––と瓜二つの髪型に乱れた、ボクがいた。
「…………」
「なぁにぼーっとしてんだよ」
「わっ」
 ぐっ、と頭を押さえつけられて目が覚めた。ぴょこんと特徴的に跳ねたボクのてっぺんの毛を、大きな手が覆っている。かっと目を見開くと、次の瞬間にはありとあらゆるところの髪がぴよんぴよんにはねた大男が、ひょいと鏡の世界に映りこんできた。
「がく……」
「顔洗ったんならさっさと変わってくれよ」
 ぽんぽんとボクの頭を暇つぶしのように叩きながら、くわ、と楽が欠伸をかみ殺す。
「…………」
「なんだよ。俺の顔になんかついてるか?」
「……ハァ」
「人の顔見てため息つくなよ!」
「これが、ボクの人生か」
「起きて早々まじでなんの話なんだよ」
「こっちの話だよ、キミには関係ない」
「あぁ⁉」
「やっぱり。声がすると思ったら」
 今度は入り口のドアが開いた音がして、二人揃って振り返る。
「二人ともおはよう! ご飯もうすぐできるよ!」
「龍」
「……りゅう」
「あ、そっち行くからいいよ。そのままで」
「?」
 ずんずんとこちらに進んでくると、鏡の中の隙間を埋めるように、楽の反対から今度はひょこりとエプロンをかけた大男が覗いた。
「…………」
「おい、龍にはため息つかないの何でだよ」
「え、なんの話?」
「こいつが朝から、壮大に人生に思い馳せてんだよ」
「へぇ。天、何かあったの?」
「ええと……」
 鏡に映る片眉を上げてちょっと不機嫌そうな顔と、眉を下げて柔和に微笑む顔を交互に見やる。最後に、その二人に挟まれた鏡の中のボク自身と目が合った。
「……なんでもないよ。多少むさ苦しいなとは思ったけど、悪くはないよなって考えてただけ」
「おまえの人生が?」
「まぁ、そうだね」
「なんかよく分かんないけど……とりあえずご飯食べる?」
「うん。冷めない内に食べたいから、すぐ行く。ありがとう」
「ありがとな、龍」
「今日の当番だから当然だよ! あ、そうだ天。歯磨き粉、なくなりかけてただろ? イチゴ味の新しいの、昨日買っといたよ。はいこれ」
「あ……ありがとう」
「ほんと、そういうとこだけは子どもっぽくて年相応だよな」
「いちいちうるさい」
「いちいちつっかかってくんのはおめーだろうが!」

 名字が変わっても、ボクにとって陸はたった一人の大切な弟で。でもそれと同じだけ陸から離れてボクはボクで、ボクだけの人生を歩いていく。頼もしい、この二人のメンバーと一緒に。レッスンに真摯に挑む義妹と、いつか帰ってきて改めてボクを褒めてくれる養父と、また食卓を囲めることを信じて。
 一度自分から捨てたもの、自分のそばから離れていったものを完全に元の形で取り戻すことはできないけれど。いつかきっと新しい形で、出会えてまた縁を結べると、ボクは信じている。

「ったく。天に洗面所は先譲るから手伝うよ。箸とか皿出せばいいか、龍?」
「うん、ありがとう。天、ゆっくりで良いからね」
「ありがとう。……あぁ、『ボクの家』、すっごく良いな」
「……天。おまえまじでどうしたんだよ?」
「ちょっと昔を、思い出してね。返信くれるか分からないけど、九条さんに今日はラビチャしてみようかなって」
「昔かぁ。でも、嬉しいよ。最初に住んでたのが俺ってだけで、ここはもう楽や天の家でもあるからね。天が自分からボクの家って、そう言ってくれるのは嬉しいな! ……あっ、待って忘れてたゆで卵固いのになっちゃう! 俺ちょっとキッチン戻るね!」
「あ、待てよ龍! 俺も行く」
「……はぁ。騒がしい男たち」
 バタバタと音を立てて去っていく後ろ姿に、ため息をつく。とはいえ、ボクも早く手伝いに行かないと。ボクはれっきとした、この家の一員なのだから。
「……ふふ」
 口に含んだ歯ブラシから、ほんのり甘さが広がっていく。ある晴れた気持ちのいい朝の七時九分。脇に置いていたスマホが、そんな朝にぴったりのラビチャ着信を告げた。

『おはよう天にぃ! 今日は一緒の仕事だね!楽しみにしてる! あとねぇねぇ、見てよ!起きたら天にぃにそっくりな寝癖できてた!』

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