なな利き2

A01 君を見ている

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「環くん、野菜食べるまで、遊んじゃだめだからね」
 小学校の教室。クラスメイトはとっくに給食を食べ終わり、短い昼休みのチャイムが鳴る頃だった。
「おにごしよーぜ!」「いやドッジだろ」「いこいこ!」
 ガタガタと椅子を引く音や、楽しげな笑い声が教室のあちこちから響いている。
 そんな賑やかな喧騒のなかで――四葉環の机だけは、まるで教室から取り残されたように、静まり返っていた。
 机の上には、まだ食器が置かれたままだ。シチューに入ったグリンピースに、中がくりぬかれたピーマンの肉詰め。野菜だけが綺麗によけられ、皿の端に寄せられていた。
「だって、たべたくないし」
「食べないとダメ。野菜を食べないと、大きくなれないよ」
「……やだ」
 別に野菜を食べなくたって環は元気だ。
「……まったく。昼休みが終わるまでには食べるんだよ? 先生は職員室に行ってくるから」
「………」
 環にこれ以上話してもよい反応が返ってこないと分かり、担任は教室の外へと消えていく。
 グラウンドから聞こえてくるボールの音や、クラスメイトたちの楽しげなおしゃべりに耳を傾けていると、短い昼休みはあっという間に過ぎ去ってしまった。
 この小学校では、昼休みが終わるとすぐに掃除の時間になっている。周りの机が次々に教室の後方に運ばれていく中で、一列目の席の環は座ったままだ。
「環くん、ここはくから、つくえ下げて」
「……わかった」
 まず椅子を運び、次に食器が落ちないように机を慎重に運ぶ。クラスメイトも毎日のように続くこの状況に慣れてしまったようで、環のほうを見ないようにしていた。そんな中、環はいつもみじめな思いをしていたのだった。
 いまだに野菜に手を付ける気も起きず、ぼーっと教室を眺めていると、あるクラスメイトの様子が目に留まる。その子は背が少し低く、掃除用具入れのロッカーの上の方にかけられた小さなちりとりに、必死に手を伸ばしていた。引っかかってしまっているのか、いくら背伸びをしても、指先がかすめるだけでなかなか取れないでいる。
「……」
 環は黙って立ち上がると、自分の席から椅子を引き抜く。掃除用具入れのほうへと歩いていき、そのクラスメイトの横にすっと椅子を置いた。
「どいて」
「え……」
 戸惑う瞳を他所に、環は上履きのままひょいと登る。あと少しでちりとりに手が届くところで――ガラガラガラ、ガッシャン。
 立てかけられていた長ほうきが盛大に音を立てて倒れ、教室中が静まり返る。
「……っ…」
 ほうきの倒れた音に驚き、その子は大粒の涙をこぼして泣き出してしまった。
「どうしたの?」
 他の場所を掃除していた子どもたちがざわざわと集まってくる。さらに、一人が慌てて廊下へ走り出し、「せんせーい!」と叫んで担任を呼びつけた。
「大きな音がしたけど……ってこら! 椅子のぼるときは上履きを脱ぎなさい!」
 椅子から慌てて飛び降りた環に、担任が厳しい目を向ける。
「環くんが泣かせたの?」
「ちげーし! おれは、ただとってあげようとして……」
「環くんがさわったらいきなり、がしゃんって……っ」
「なんでだよ……! ちげーよ!」
「環くん、大きな声出さないの! もう先生来たから大丈夫だからね。
……環くん、ちゃんと謝って」
「おれは……わるくない……。だれか、見てたよな? おれべつになんもしてないよな?」
 環は必死に周りを見回す。けれど、クラスメイトたちは黙って目を逸らすだけだった。あいにく、みんなそれぞれ自分の掃除場所に集中していて、その瞬間を正確に見ていた者はいなかったらしい。
「環くん?」
 逃げ場のないプレッシャーをかけられ、環はぐっと唇を噛み締める。
――やってない。何も悪くないのに。だけど、誰も味方をしてくれない。
「……ごめんなさい」
 悔しさで震える声を、どうにか絞り出す。
 その子はまだ肩を震わせ、静かに涙を流し続けていた。周りのクラスメイトたちは、「やっぱり環くんが泣かせたんだ」と言いたげな冷ややかな目を向けている。環がその視線を睨み返すように見やると、彼らは気まずそうにさっと顔を背けた。
 倒れたほうきを拾い上げながら、担任はふと、環のまだ手つかずの皿へと目を留める。
「環くん、まだ食べてなかったの!? それなのにこんなことを……はあ、もういい。とりあえず野菜を食べなさい」
――嫌だ、食べたくない。あいつらのことも、先生のことも、全部ムカつく。
 返事をせず、ふてくされた足取りで自分の席へと戻る。そして、皿の端に追いやられたグリンピースを睨みつけ、――息を止めて一気に口へ放り込み、飲み込んだ。

 学校が終わるころには、暗い雲が空を覆い、雨が降り始めていた。天気予報なんてあてにならない。――もっとも、朝から天気予報なんて見てすらいなかったけれど。環は教室のロッカーに自分用の置き傘があったことを思い出し、それを引っ張り出して校舎を出た。
 話を聞いてもらえなかったこと。何もしていないのに、自分ばかりが怒られたこと。
 その記憶が蘇るたび、胸の奥からどうしようもない怒りがこみ上げてくる。消化しきれないエネルギーが体の中でマグマのようにふつふつと煮え返っていた。
 「あーー!!!!」
 怒りに任せて、道の端にあった水たまりをバシャーン!と力いっぱい踏みつける。水が跳ね返り、服に容赦なく冷たい水しぶきがかかった。
 「………くっそ!」
 
 雨は勢いを増していく。
 その音に混じって、どこかから――小さな泣き声が聞こえた気がした。その瞬間、先ほどまで怒りに震えていた環の心がたちまち悲しみに染まり、痛み出す。
「………ひっく…」
 足を止め、声のする方へと歩いていくと、公園にあるドーム型の遊具の陰で、小さな女の子が一人で泣いていた。
「どーした?」
 その子を怖がらせないように、目線を合わせて、なるべく優しい声で話しかける。
「こうえんであそんでたら、あめがふってきて……。かさわすれちゃったから、かえれないの……おかあさん……」
 おかあさん、という言葉に環はぴくりと反応してしまう。
「じゃあ、このかさかしてあげる」
「でも、おにいちゃんがぬれちゃう……」
「おれはもういっこもってるから。はやくかあちゃんのとこにかえりな」
 環は優しい嘘をついた。
「……ありがとう」
「おくってこうか?」
「だいじょーぶ。 おうちちかくだから。おかあさん、あかちゃんのおせわでいそがしいの。だから、わたしがしっかりしたおねえちゃんになりたいの!」
 いつの間にか女の子は泣き止んでおり、頼もしい姿を見せている。環はその姿に、妹が生まれたころの自分を重ね合わせていた。
「そっか。わかった。きっといいおねえちゃんになれるよ。きをつけてかえれよ」
「うん!」
 ドームから出て、女の子が差し出された傘を受け取ろうとすると、遠くから慌ただしい人影が近づいてきた。
「いた!」
「おかあさん!」
 女の子は母親のほうへ駆け寄り、足元に抱き着く。母親はすやすやと眠る小さな赤ちゃんを抱えていた。
(………)
「かえってこないからしんぱいしたのよ。……この子は?」
「かさかしてくれたおにいちゃん! でももうおかあさんむかえにきてくれたから、かさかえすね。おかあさん、わたしのかさは?」
「あ、かさわすれちゃった。ごめんね……」
「もー! おかあさんはうっかりしてるんだからー!」
 目の前で繰り広げられる、あまりにも日常的で温かい親子の光景に、環の心は急速に冷え切っていく。
「……いいよ、そのかさつかって」
「いいの?」
 環は自分の傘を、女の子に押し付けるようにしてその手に持たせた。その瞬間から、環の頭上には傘がなくなり、冷たい雨が直接肩を叩く。
「さっきもいったろ? もういっこもってるって。かあちゃんもむかえにきてくれたんだし、はやくかえりなよ」
 不機嫌な気持ちがのらないように、わざと明るい声を出す。
――早く帰ってほしかった。もう温かい会話を見たくなかった。今すぐに目の前からいなくなってほしかった。
 こんなことを思ってしまう自分はきっと、優しくないのだろう。
「ほんとうにありがとうね。あなたもきをつけてかえってね」
「うん」
「おにいちゃん、ばいばーい!」
 環は親子の姿が見えなくなるまで、強がった笑顔で手を振り続けた。

 雨宿りをする気にもなれず、土砂降りの雨の中立ち尽くす。普段使いの優しさも、すり減って底が見えてしまった。
(かさなくしたって、おこられるだろうな……)
 理不尽な雨に打たれて、環は心も体もずぶ濡れになって震えていた。足元の水たまりを覗き込めば、そこに映る自分の姿は、波打つ雨のせいでぐにゃぐにゃに歪んでしまっている。自分の輪郭すら確かではないような気がして、胸の奥がさらに冷たく沈んだ。
「環」
 ふいに名前を呼ばれ、雨が止んだ。
「誰だよ」
 頭上を見ると、自分よりずっと背の高い青年が傘を環のほうに差し出していた。
「そんな怒んなって。……俺は、未来の環」
「なに言ってんだよ! 話しかけんな!」
 威嚇する環に、未来の環はしゃがんで目線を合わせる。
「俺、知ってるよ。環のことを」
「知るわけねーだろ! だれもおれのことなんてわかってくれない!」
「わかってるよ、いま泣きそうだってこと」
「え」
 環は驚いた。今、自分はこんなにも怒っているのに。それを――「泣きそう」なんて言われたから。
「環、今の環は、誰にもわかってもらえなくて、かなしい。どうにもならなくて、くるしいんだよ」
「……。これが……くるしい、なの」
「そう」
「……っ……」
 環の瞳に、未来の環が映り込む。
「でも、大丈夫だから。未来の俺は、幸せだよ。環が頑張ってるの、知ってるから」
「うっ……ああ……!」
 とめどなくあふれる涙を拭おうともせず、小さな環は声を上げて泣いた。未来の環は、そんな環をそっと両腕で抱き寄せる。小さな背中に大きな腕を回し、優しく背中を撫でた。
「じゃあさ……こうなったら、どうしたらいいの……っ」
 ぐしゃぐしゃの顔で胸元にすがりつく環に、未来の環は愛おしそうに目を細め、微笑む。
「うーん……そうだな……王様プリンたべたり、……あとは、泣きたいだけ泣いていいんだよ。我慢しなくていい」
「……でも、泣いたら怒られる……」
「怒んないよ。誰も怒んない」
 小さな体をさらに優しく包み込みながら、力強く言葉を紡ぐ。
「一人で全部抱え込まなくていい。これからは、俺が――いや、俺たちが、いつでもそばにいる。環のこと、頭ごなしに否定したりしねえよ。俺が、環の話を全部聞いてやるから。ずっと味方でいてやる。環がぼろぼろになる前に、俺が環を守るから」
 そっと環から離れ、未来の環はもう一度まっすぐにその目を見つめた。
「……それにさ、環のこと、まるごと分かってくれる人にもちゃんと出会える。君を見てるよ、君が一番大事だって言ってくれる人が、いるから」

 気づけば、雨は上がっている。
「水たまり見て」
「なに?」
「虹」
「ほんとだ!」
 振り返ると、そこにいたはずの姿はもうどこにもなかった。
 環はとぽん、と水面を踏む。波紋がゆっくりと静まり、そこに映った環は――泣きじゃくった跡を頬に残したまま、太陽のように晴れやかな笑顔を見せていた。

◇
「環くん、準備できた?」
 鏡の前に座る環の背後から、壮五が覗き込む。鏡の向こうで目が合い、環はふっと笑みをこぼした。
「そろそろ出番だから、行こうか」
「おー!」

「みんなー! ようこそ! オレたちのライブへ! せーの、」
「IDOLiSH7です!」
「きゃあああああああ!」
 眩い歓声とペンライトの海が広がるステージの上で、環はぐっとマイクを握りしめた。客席の熱気をまっすぐに受け止めながら、ふと、隣に立つ相方と、メンバーの姿に視線を走らせる。
 環はもう、ひとりじゃない。同じ夢を見る仲間と、今こうして同じ景色を眺めている。胸の奥が熱くなり、環は満面の笑みで大きく腕を突き上げた。
「雨が降って、びしょ濡れでずーんってしてる人にも届くように、俺たちが虹をかけるから!」
「それでは聴いてください、IDOLiSH7で――『i know you』」

――いつだって、『君』を見ているから。

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