A01 魔法に掛けられて

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 逢坂壮五がIDOLiSH7寮の玄関ドアを開けて目にしたものは、靴を履いたまま上がりかまちに座り込む七瀬陸の姿であった。陸は両手にスマホを持ったまま座っており、額を両手で支えているような姿勢だった。壮五は一瞬、陸の体調が悪いのではないか、と思ったが目の前で、陸が『うぅーん、不安だよー』と呟く声が聞こえてきた。
 声の様子からして陸の体調が悪くなさそうだ。壮五はゲストで呼ばれていたラジオ音楽番組の収録を終えて今しがた寮に戻ったのだが、今日の陸は一日オフとなっていたハズ。どこかに出掛けるのか、それとも壮五と同じように外出から帰ってきたのか。分かるのは「陸が何かを悩んでいる」ということのみ。壮五は何か力になれれば、と思い陸に声を掛けた。
「ただいま、陸くん。玄関に座り込んでるけど、どうしたんだい?」
「あ! 壮五さんお帰りなさい! オレ邪魔ですよね。すみません、退きますね」
「大丈夫だよ。それより何か悩んでいるみたいだったけど……」
 どうやら陸はかなり考え込んでいたようだ。声を掛けられて壮五の存在に気付いたものの、壮五の言葉を聞き逃していた。壮五は慌てて立ち上がろうとする陸を落ち着かせてから、再度、陸が何に悩んでいるのかを尋ねた。
「ありがとうございます。あの……今日、天にぃと生ドーナツを食べに行く約束をしていたんです。ちょっと前にテレビで新しくできたドーナツ屋さんの特集を見て、それを天にぃにラビチャで話して、天にぃと一緒に行きたい! ってお願いして……」
 陸が話す内容は悩むような内容ではなく、とても微笑ましいものだった。それなのに、陸の表情には少し憂いがある。
「変な話、靴を履く前までは本当に楽しみだったんです。美味しいドーナツを食べながら天にぃと沢山話せる。オレ、今日を楽しみに仕事してたって胸を張って言えるくらい、楽しみだったんです。それなのに、本当は天にぃは行きたくなくって、無理をさせてるんじゃないかって不安で……」
 壮五は陸の悩みの元であり、彼の双子の兄である九条天に考えを巡らせた。天は陸のことが大好きだ、それも重度のブラコンと言っていいまでに。陸は自分のワガママで天を振り回しているのではないか、と悩んでいるが、壮五が思うに天は陸のワガママを可愛いおねだりと受け取っている節がある。きっと今回の誘いも天からしたら可愛い弟からの誘いと思っているだろう。それに、天は甘い物――特にドーナツが大好物だと聞く。可愛い弟からの誘いと大好物のドーナツ、この二つを前にして「本当は行きたくない」とはならないハズだ。
「九条さんのことだから陸くんの誘いを嫌がることはないと思うけど……でも陸くんは不安になっちゃったんだよね。よし、なら僕が魔法をかけてあげよう」
「魔法、ですか?」
「うん、とっておきの魔法だよ。環くんから教わったんだ。怖い時、不安な時、自信がなくなった時に元気になれる魔法の呪文」
 壮五が作曲や何かを決断する時、相方である四葉環はよく魔法を掛ける。そうすると不思議なもので、悩んでいたフレーズや不安要素がスゥッとなくなり、残るものは清々しく良い結果だけになるのだ。気休めかもしれないが、壮五は環から掛けられるその魔法の呪文に大層助けられているのも事実なのだ。
「ビビディ・バビディ・ブー! はい、これで大丈夫。何と言っても環くんも子供の頃から掛けてもらって、効果抜群の魔法の呪文なんだよ。ほら、九条さんとの食事、笑顔で楽しんできて。行ってらっしゃい陸くん」
「あはは、壮五さんと環からのオススメなら大丈夫な気がしてきました! ありがとうございます。壮五さんに話を聞いてもらう前は、怖くて玄関のドアが重すぎて開けられないかもって思ってたけど、今はスッキリして気分が軽くなりました! お土産買ってきますね!」
「お土産は沢山の楽しい話がいいな。気をつけてね」
「はい! いってきます!」
 鬱屈していた気持ちが玄関のドアに反映されていたのだろう。ネガティブな思考が足を鉛にし、玄関のドアを開けられない重厚な鉄の扉にする。壮五が帰ってきた当初の陸はドアを開けることも、ましてや立ち上がることも不安そうな顔をしていた。そういう時、誰かの『大丈夫だよ』という言葉が人の背中を押すことを壮五は身を以て知っているのだ。
 ひまわりのような笑みをした陸はドアを開けて外へ駆けて行った。はやる気持ちを抑えられなくて走ったのか、それとも座り込んでいた時間が予想より長く約束の時間に遅れそうなのか。どちらなのかは見送った壮五には分からない。分かることと言えば、陸が今日の予定の幸せを願いながら、ドアを開けて出掛けて行った。ただそれだけである。

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