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寮の静けさを破るように、素足で床を踏み鳴らす音が駆けてきて、扉が嵐のように打ち鳴らされた。
「いおりーん、いる?」
がたがたと揺れるドアの向こうから、間延びした声が聞こえる。一織は読んでいた本を閉じ、ため息をついて立ち上がった。この寮はとにかく騒がしい。毎日誰かしらがトラブルを起こして、気苦労が絶えない。
「うるさいですよ、四葉さん」
文句を言いながらドアを開けると、胸の前に両拳を掲げた環が、一織を見おろしてぱちぱちと二度瞬いた。
「ノックしろって、いおりんが言ったんじゃん」
「ノックをしろと言ったんです。ドラマーになれとは言ってません」
まったく、と再びため息が出てしまう。環に限らず、この扉は静けさよりも騒がしさを運んでくることのほうが多い。集中しているときにはしばらく待たせることもあるが、こうも激しく叩かれては、すぐに開けざるをえない。
「最近は七瀬さんや六弥さんまで、Perfection Gimmickのリズムに合わせてノックしたり、ドラムロールしたりしてくるんですよ。あまり妙な遊びを流行らせないでくださいね」
「えー」
環は不満そうに口を尖らせつつ入ってきて、床に腰をおろした。
「それで? 宿題は終わったんですか」
「おー、終わった。頭使ったら腹減ってさ。カップ麺できるまで暇だから、遊びに来た」
いおりんの部屋リビングから近いし――と言いながら、彼はもうスマホゲームを起動している。スマホの裏側には、王様プリンのアクリルカードが挟み込まれていた。先週、学校帰りに箱ごと購入したウエハースのおまけでゲットしたものだ。
大量のウエハースは、兄の三月がフレンチトーストやティラミス風にアレンジしてくれて、寮のみんなで美味しく食べた。三月はいつも何かと工夫して、場を明るくしてくれる。賑やかな食卓の記憶に、気づけば口元が柔らかくほころんでいた。
「カップ麺は持ってこなくていいんですか?」
「え? ここで食べていいん?」
「こぼさないなら」
環がやった、と立ち上がり、今しがた閉じたばかりのドアを開けようとノブに手をかける。
――ガキン。
異質な音がして、環の動きが止まった。ゆっくりと振り返る。
「いおりん。……ドア壊れた」
「どうしよ、いおりん」
「落ち着いて。ラッチがまだ完全に噛んでいないなら、カードのような薄いものを隙間に差し込めば、ラッチの傾斜面を押して開けられるかもしれません」
スクールバッグから下敷きを出してきて差し込んでみるが、薄いプラスチックはペラペラと曲がり、強度が足りない。実家のケーキ店のポイントカードも、力を加えるとラッチを押す前に折れ曲がってしまう。もっと硬いものを――とさ迷わせた視線の先に、床に伏せられた環のスマホがあった。アクリルに印刷されたつぶらな瞳と目が合う。
「これ、使いますよ」
環は抗議の声を上げかけたが、一織が「誰のせいだと思ってるんですか」と一喝すると、しゅんと視線を落としてカードを差し出した。受け取ったそれを隙間に差し入れ、慎重に力を込める。
「……駄目ですね。内側のバネが完全に折れたのかもしれません」
「俺の王様プリン箔押しレアカード……ちょっと端っこ欠けた気がする……」
「困りましたね……工具箱は共用スペースに収納してありますし」
噛み合わない会話を交わしながら、一織は考え込んだ。幸い、もう少しすれば大人たちが帰ってくるはずだ。工具なら兄さんも使えたはず、今のうちにメッセージを送っておこう――
「仕方ありません。他のメンバーが帰って来たら、工具で開けてもらいましょう」
「えー……。部屋のドアなくなんの、嫌じゃね?」
「そんなこと言ってる場合ですか」
諭すように言うと、環は「ごめんな、いおりん」とあっさり謝った。眉尻がしょんぼりと下がっている。こういうとき、彼は急にしおらしく、素直になる。
「大丈夫ですよ。今回は少々トラブルに繋がりましたが」
迷子の犬を見ているときのような気持ちで、自分のスマホ画面を環のほうに向ける。すぐに帰るという三月からのメッセージが表示されたところだった。
「あなたのその、場の空気を盛り上げようと振る舞う性格のおかげで、同級生とも、グループのメンバーとも、円滑なコミュニケーションを取ることができていますし」
口にしてから照れくさくなり、咳払いでごまかす。
「まあでも、これに懲りて、ドアは叩かないようにしてください」
環はきょとんと目を丸くして、それからにやりと笑った。
「お前ら、またふざけて……」
「私ではなく、四葉さんが」
「はいはい」
扉の向こうで呆れた声を漏らした三月は、数分もかからずドアノブを外してくれた。金属を押し込むかちゃりという音がして、あっけなく扉がひらく。
「ありがと、みっきー! 助かった!」
オレンジの髪が見えた瞬間、環が歓声を上げて飛びつき、三月がくすぐったそうに笑った。一織はそれを部屋の中から微笑んで見守る。
「ドアって、全部外さなくても開くのな」
「そうですよ。蝶番を外さなくとも、ドアノブを外して、ラッチを露出させれば可能性はあります」
「いおりん、それそーちゃんに言ってやって」
「自分で言ってください」
ふたりのやり取りを見ていた三月が、あははと嬉しそうに笑う。ブルゾンを着た肩が揺れて、かすかに外の空気の気配がした。眉根を寄せていた環が、すんと鼻を鳴らす。
「なんかうまそうな匂い……みっきー、メシ食ってきた? あ、違うな、これ」喋りながら、だんだんと絶望の表情へと変わっていく。「俺のカップ麺!」
悲鳴を上げた環が、一足飛びに台所へと飛んでいく。
「……めっちゃ伸びてる……俺のラーメン……」
どさりと床に膝をつく音とともに、嘆き悲しむ声が聞こえてきて、一織は三月と顔を見合わせた。どちらからともなくふっと微笑む。
「まあまあ、元気出せって」三月がからりと笑って、「伸びた麺なら、そばメシにしちまえば美味しいぜ!」と言いながら、台所へと向かう。
「みっきー、神!」
「さすが兄さんです。四葉さんはもう少し反省してください」
やがて、ジューッと炒める音とともに、香ばしい匂いが広がってゆく。
玄関の扉がひらいて、笑い声や言い争う声が一度に流れ込んできた。大和とナギが何やら議論している声が響く。それを陸があさっての方向へと導いて、壮五だけでは収拾がつかなくなっている。
それを聞きながら、一織はリビングのソファで本をひらいた。
――まったく、騒がしくて手のかかる人たち。けれど。
たとえ扉が壊れても、苦労ばかりでも、笑い声とともにまた開いていく。そんな日常が今の一織には、どこか愛しく、誇らしく思えるのだった。