- 縦書き
- 小
- 中
- 大
- 明朝
- ゴシ
犯罪に、暮れも正月もない。
しかし、よりによって大晦日に逮捕されなくても。
そして正月の一月二日、私が当番検事の日に身柄送致されてこなくても。と、内心で思ってしまうことくらいは、許して欲しい。
立会事務官から手渡された送致記録のファイルに、ひとわたり目を通す。
冒頭に記された被疑者の名には見覚えがあった。少し前の経済紙で、若くして大手芸能プロダクションの社長に就任したと報じられていた人物である。随分と波乱万丈なことだ。
「ツクモプロダクション、ね……」
娘が最近推しているアイドルグループ、ŹOOĻの所属する事務所だ。これでまた社長が交代したりするのだろうか。うちの子たちがあまり気を揉まないでくれれば良いのだけれど。
娘と息子、子どもたちふたりは夫に連れられて義実家へ年始の挨拶に行っている。定時で上がれたら、追いかけて夕食をともにする予定だった。
ため息を押し殺し、気を取り直して犯罪事実へと読み進む。
十二月三十一日夜、任意同行を求めた警察官を恫喝し逃走。公務執行妨害。許可なくして公開放送中のライブホールへ侵入。建造物侵入、偽計業務妨害。警備員の通報により現行犯逮捕。
参考情報として、当初の任意同行案件が書き添えられていた。貿易事業における不正競争防止法並びに公正取引確保違反疑いとのことだが、こちらの取り調べは現時点では行われていない。
「……これって、ブラホワの生放映中に会場へ侵入したの」
「アイドル部門の決勝で、ちょうどŹOOĻが出場していた時間帯ですね。供述調書と資料のタイムラインは一致しています」
問いともつかない呟きだったが、事務官が律儀に答えた。
「自分もブラホワはテレビで見ていましたが、そんな騒ぎがあったとは気がつきませんでした」
「私も子どもたちと一緒に見ていたけれど、番組進行に違和感は無かったと思う」
単なる四方山話ではない。国民的番組を乱したことによる社会的な影響の有無は、勾留請求を行うか否か、そして起訴するか否かの重要な判断ポイントだ。
ブラホワを見ながら家族で過ごした大晦日を思い出す。我が家の娘はŹOOĻ推し、息子はIDOLiSH7推しで、テレビに向けてひとしきり声援を送った後は、私と夫のスマホ投票目当ての推しプレゼン合戦が繰りひろげられ、賑やかに愉快に夜は更けていった。あの楽しい時間が台無しになっていたかもしれないと思うと、喉がつかえるような心持ちになる。
――けれど。
参考人供述録取には、声を涸らしてŹOOĻの名を叫んでいた、との目撃証言があった。食い入るように見つめ、幾度もコールし、ちぎれんばかりに手を振っていたと。
Bang! Bang! Bang! と歌うアイドルを見上げて、名を呼んで。
追われる身となりながら、この人物は何を思い、何を求めていたのだろう。
送致記録の検討を終えて、内線を一本かける。
数分後、ノックの音がして、連行の警察官とともに件の被疑者が執務室へと入ってきた。
ナイフのような細身。背はすらりと高い。手錠をかけられていながら姿勢は良く、自然な佇まいが保たれていた。年越しと年明けを快適とは言い難い留置場で過ごしたはずだが、疲弊した素振りはない。張りつめた雰囲気を纏いつつ、奇妙なほどに落ち着き払っている。
激高し逃走したという記載から予想していたイメージとはだいぶ隔たりがあった。アイドルに全力で声援を送っていたという人物像からも。
警察官が椅子へと誘導する。腰を下ろしたところで手錠を外されて、彼は手首に目を落とした。縛められていた枷の跡、こすれて毛羽立った肌を指先で撫でさすりながら、何か物思いに耽っている。
「弁解録取の聴取を始めます。――さん」
声に出して名を呼び、間違いありませんか、と問いかけた。
俯き加減だった顔が上がる。ゆっくりと頷き、それから、ごく淡々とした調子で彼は言った。
「余計な手間はいらない。その書類に書かれていることを、僕はすべて認めよう。名前も、身分も、罪状も」
「……弁解なく罪科を受け入れると?」
予期せぬ言葉に、事務官と素早く視線を交わす。
公務執行妨害、建造物侵入、偽計業務妨害。
罪名はこの三つだが、いずれもかなり軽微なものだ。公務執行妨害は、警察官の横を擦り抜けるときに肘が触れたという事案で、立件するほどのものではない。建造物侵入とそれに伴う偽計業務妨害は、彼のこれまでの業界での立ち位置からして、いわゆる顔パスで通ろうとしたという解釈が成り立つだろう。これも不起訴に終わる公算の高い案件だ。
「犯罪事実を確認しましたが、捜査次第で不起訴、もしくは無罪となる可能性もありますよ。弁護士もその方向に持っていくでしょう」
そう言うと彼は芝居がかった仕草で肩を竦めた。
「検察が改めて捜査するまでもないだろう? 僕が認めて、罪状認否は完了しているんだから。このまま略式起訴に持ち込んでくれればいい。罰金なら幾らでも。とにかく穏便に、速やかに終わらせたい」
「……略式裁判を、希望されるんですね」
なるほど、と思った。
穏便に、速やかに。この二つの言葉で、意図するところが透けて見えたような気がする。
――穏便に。
法廷を経ずに命令書一枚で終わる略式裁判は、大きく報道されることはまず無い。
企業イメージを損なうリスクがぐっと低くなる。芸能プロダクションであればなおさら、所属するタレントのイメージダウンも最小限に防げるだろう。
――速やかに。
略式命令の言い渡しと執行が終われば勾留が解かれ、晴れて自由の身となれる。
……しかし、不起訴になれば当然釈放されるし、その場合は無罪放免だ。一方、略式裁判では有罪が確定し、前科がついてしまう。ほんの数日から数週間ばかり釈放を早める代償として、吊り合うものではない。
何故そこまでして早期の釈放を望むのか。
椅子に深く座り直し、背筋を伸ばして、注意深く言葉を選ぶ。
「慣例のルールとして、略式命令は勾留満期の前日に発付されます。釈放の時期は、起訴・不起訴の決定を待つのと大して変わりません。それでもよろしいですか?」
すると彼は、組んだ足の上で頬杖をつき、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「警察署の留置が四十八時間。検察庁が二十四時間。そして、捜査のための勾留期限が十日間。身柄拘束日から数えて、合計で十四日。……ところで、臨時株主総会を開くための招集通知期間って知ってる?」
無言のままでいると、唇を歪め、両手の指を広げて見せたのち、右手の指だけを四本立てた。
「十四日間だ。十四日の不在の間に、株主総会で解任が決議されれば、僕はすべてを失い路頭に迷うだろう。これって社会的地位の危機として釈放を早めるべき事例じゃない? ルールなんて、そのへんに転がしておけばいい」
再び、なるほど、と思う。
ツクモプロのお家騒動などあずかり知らぬところだが、彼の言うとおり、身分の喪失が危惧されるのであれば、特例として手続きを早める斟酌材料になる。うまく乗せられているような気がしないでもないが、筋としてはおかしくない。
視界の隅で、事務官が素早く端末を操作する。モニタからこちらに視線を移動し、小さく頷いた。類似の事例は存在するという合図の目配せだ。
「もうひとつ、いいですか。略式裁判をすると……前科がつきます」
そもそもの任意同行案件である、貿易事業での疑義。
この件で、もしも罪に問われた場合、前科の有無は量刑を大きく左右する。実刑とでもなれば社長業に復帰するどころの話ではなくなるだろう。
だが彼はこの疑問にあっさりと首を振った。
「構わないよ。社長として権限を行使できる時間が、一日でもあれば、後は」
「一日でも? どうして……何のために、前科までつけて」
ぽろりと零れてしまった疑問は素朴すぎていささか間が抜けていた。が、それゆえに、素直に通じるものがあったのかもしれない。
ずっと浮かべていた冷笑を消して、彼は、ぼそりと答えた。
「……引き継ぎがしたいんだ」
「引き継ぎ? 追い出される会社の、辞めさせられる仕事の引き継ぎですか」
「僕のことじゃない。僕自身の引き継ぎではない。……ただ、後悔だけはしたくない。それだけだ」
後悔だけはしたくない。どこかで聞いたフレーズだった。
凝り固まったルールを、――
ŹOOĻのプレゼンをしていた娘が、この歌詞がいいんだよ、と力説していた。
『でも、あんまりお母さん向けではないかもね』
それはそうだ。検察官はルールを守る。恣意的な正義は許されない。
けれど、だからこそ、印象深く耳にずっと残り続けた。
「Just, break it down…か」
節はつけず、低く呟く。と、彼が顔を上げた。鋭利な瞳が真っ直ぐに貫いて私を見る。初めて、目が合った。
「娘がŹOOĻのファンなの。あの夜のブラホワは、IDOLiSH7ファンの息子と喧々諤々しながら見ていてね」
「……へえ。その子に、伝えておいてくれる」
彼の顔に、表情が生まれた。微笑と呼ぶには鋭く、苦笑と呼ぶには熱く。憎々しげなようで、裏返しの情熱を燻らせて。
「次は、彼らが勝つから。目を離さずに見続けていて、ってね」
ちょうど、あの歌みたいな。不敵な笑みだった。
◆ ◆ ◆
それから後、彼を目にしたのは、一度きり。
略式起訴の当日のこと。裁判官から命令書を受け取り、罰金を支払うために検察庁に戻ってきたところを、遠目に見かけた。
事務的に手続きを終え、踵を返す後ろ姿を、なんとなく立ち止まって見送った。
足早に去りかけて、エントランスで一度だけ振り返った彼が、私の姿を目に留めて、ひたりと足を止める。
頷きかけるように小さく目礼をすると、スモークグレーのガラスドアの向こう側、少しの逡巡の後、ゆっくりと頭が下がった。
前科という消えない傷を代償に開いた扉をくぐり、彼は、引き継ぎに向かうのだろう。
引き継ぎ、受け継がれて、手を離し。
――それでも、目は離さずに。見続けていくのだろう。