F04 友愛ミッション2025

  • 縦書き
  • 明朝
  • ゴシ

 間に合え!
 夏の気配の色濃い夜二十時半過ぎ、俺は改札目掛けてホームの階段を駆け上がった。
 本来ならもう少し手を入れねばならない資料から目を逸らし会社を飛び出したのは、二十一時までに自宅へ辿り着きたかったから。更にできればシャワーで汗を流して身を清め、念入りにスキンケアなんかしちゃってから正座でその時間を迎えたかったから!
 まだ帰宅ラッシュの続く駅前、サラリーマンの全力疾走に周囲の目は冷たかったが、そんなことはどうでもいい。
 とにかく俺は、俺は絶対必ず何がなんでも今日は定刻までに帰らねばならないのだ!
 駅近の一点のみで選んだ単身者向けの低層マンションにオートロックなどという洒落たものはない。どうせチラシしか入っていないであろう郵便受けは無視し、とにかくまっすぐ自室へと向かう。
 逸る心を押さえつけながらもどかしい手つきで鍵を開け、やや澱んだ空気の漂う玄関を抜けた。
 まずは居室点灯、クーラーON。洗面所にとって返して手洗いうがい、そのまま服を脱いで洗濯機に放り込み、猛然とシャワーを済ませ、体を拭きながら確認した時刻は二十時五十七分。
 スキンケアは諦めよう。まあぶっちゃけ、推しに会う時にみっともない自分でいたくないと思って始めただけで、それほど重要視はしていない。
 冷蔵庫から缶ビールと昨日の残りの惣菜を出して居室のテーブルに並べ、さあ、いざ行かん、ハッピーアイランド!
 荒くなりそうな呼吸を整えつつ、俺は携帯のラジオアプリを起動させた。
 映画の番宣や健康食品のコマーシャルの後、人生で一番聞いた曲のイントロが流れ始める。
 緊張が最高潮に達する。今日予告通り来るよな? 直前で交代とかない、よな!?
 祈るような気持ちでスマホの画面を睨みつけた瞬間、ボリュームダウンしたデビュー曲の上にふわりと涼やかな声が乗った。
「こんばんは、IDOLiSH7の和泉一織です」
「四葉環でっす」
 嗚呼!
「今週のIDOLiSH7のナナナナイトは私たち最年少コンビでお送りします」
「よろしくなー」
 嗚呼!!
 俺は待ち焦がれた推しの声に思わず床を転がった。
 久しぶりだァー! 生きてて良かったァー!
「ようやく定期考査も終わりまして、お仕事も再開です」
 高校生全開の挨拶に大袈裟ではなく心臓がドキュンと鳴った。もうやだー! 尊い!
 そう、俺は何を隠そうというか別に隠してもないのだが、アラサー独身の企業戦士かつIDOLiSH7の和泉一織くん(17)のファンなのである。
 思い起こせば半年前、重いプレゼンが続いて果てしなく残業が続くわ行きたくもなかった会食の領収書を失くすわ目を掛けていた後輩が転職の相談をしてくるわで、身も心もズタボロだった頃、彼は俺が毎朝観るともなく観ているニュース番組にキャスターのお仕事体験という触れ込みで現れたのだ。
 始めは最近この顔たまに見るな、アイドルっていうのもいろいろやらされて大変だな、くらいの感想だったのだが、どこまでも真摯に原稿を読む姿勢と若さ溢れる清く正しく真っ当に青いコメントの数々についうっかり疲れ果てていた心を動かされてしまい、そこからは真っ逆さまだ。
 いつのまにか通勤中にスマホで彼の情報を漁り始めた自分に戸惑いつつも、衝動はまるで治まらず、結局ファンクラブに入り、楽曲をダウンロードし、出演番組を片っ端から録画し、そして今日はラジオをリアタイするために業務を投げ出して帰宅した。本当は会社のデスクにアクスタも飾りたい。隣の席の山田さんはRe:valeの千くんのアクスタを3体並べている。羨ましい。こちらはまだそこまで思い切れない。
 ちなみに俺はあくまでもファンとして一織くん推しているはずなのだが、こんなに誰かを追いかけるのは人生で初めてなのでちょっと加減がわからない。なので、ドルオタ歴二十年の山田さんにもし自分がファンとして逸脱した行動を取り始めたらぶん殴ってくれと言ってある。そしてまだ殴られていないので多分このくらいは大丈夫なはず。多分。
「もーテストほんと大変だった。疲れた。いおりん鬼みたいに勉強しろってゆーしー」
「当たり前でしょう。赤点で補習になったらあなた今日来れなかったんですよ」
「だからあ、頑張ったじゃん! もうこの話終わり! もっと楽しいこと話そ! な!?」
「またそうやって現実から目を逸らして」
「逸らしてんじゃないの、リスナーのみんなも絶対別の話がいいってば!」
 ラジオからはテンポの良い環くんと一織くんの応酬が流れてくる。この二人はなんだかんだで仲が良くて微笑ましい。ついでに一織くんが環くん相手にはなぜか弟ムーブをかますので大変よろしい。
「そんなこともないと思いますけど」
「そんなこともあるの! じゃあさあ、例えばさあ、夏休み終わったら体育祭じゃん。今年、クラス対抗のムカデ競走やるって」
「は?」
「オレ、中学の時やったことあんよ。だから結構プロい。いおりんは?」
「ないですけど……ムカデ?」
 もう少しお小言を並べたそうな一織くんを強引に遮った環くんが、これまたファンのハートをひと突きするような情報を開陳した。
 ムカデ競走。スーパーアイドルが。イッチニイイッニイと掛け声を掛けながら、三十人程度はいるであろうクラスメイトと汗を流しながら足並みをそろえて校庭を走る。
 見たい。控えめに言って見たすぎる。確か亥清悠くんも同じクラスだったから、三人が並ぶかもしれない。すごい絵面だ。見たい。むしろ一緒に走りたい。いや、無理だ。自分なんかが一織くんの視界に入るなんて恐れ多すぎて腰を抜かす。肩を掴んでその汗の滲むうなじを見つめながら走るとかありえない。一瞬で失神する。
 うわ、でもそういう体験をするクラスメイトが存在するのか。うわー、うわー! だめだめだめ! それが許せるのは環くんか悠くんしかいない! 二人のどちらか、必ず絶対何がなんでも一織くんの後続を勝ち取ってくれ!
 自分で自分の妄想に赤くなったり青くなったりしているうちに、二人の会話の矛先はムカデ競争から先日行われたアイドル運動会のほうへと流れ、俺が初めて聞くエピソードがいくつか披露された。ラジオ最高。ありがとう世界。
「それではここで一曲お聴きください。Encounter Love Song」
 彼らの最新曲を聞いてようやく心が落ち着いたので、手付かずだった缶ビールのプルタブを開けた。味どころか何を食ったかも覚えていなかったあの日を超えて今日もビールが美味いのは一織くんのおかげです! 多謝!
「この曲、オレ大好き! いつかライブでみんなに聞かせたい! みんなも好きになってくれたら嬉しい!」
 酒を飲みながらしみじみ聞き入っていると、アウトロに環くんの元気な声が被った。
 うんうん、俺も大好きだよォー! 次のライブは人生の全ての運と引き換えでもいいから参戦したいよ!
「そんで次は『IDOLiSH7だったらどうするこうする!?』のコーナー! オレたちIDOLiSH7がファンのみんなからのお題に答えまーす。今週もたくさんのメッセージありがとな!」
「スタッフさんだけではなく、私たちも大事に読ませていただいております。では、参りましょう。神奈川県在住の那由多さんから。一織くん、環くん、こんばんは」
「こんばんはー!」
「最近わたしの学校では、何かをしないと出られない部屋、というのが流行っています。たとえばこんな感じです。お二人は目覚めたら窓も扉もない部屋に閉じ込められていました。あるのはホワイトボードだけ。そこには「〇〇しないと出られない部屋」と書かれています。この〇〇の部分は誰かが消したのか、掠れてしまって読めません。さて、お二人は何をすれば出られるでしょうか?」
 ちょっと待ったァァァ!
 俺は缶ビールを持ったまま思わず立ち上がった。
 ちょっとちょっとちょっと待ったァァァ!
「んんん、これ、正解あんの?」
「さあ? 何か上手くオチがつけられればいいように思いますが」
 のほほんと話を進める二人はこのやや下世話なネットミームについてまるで知らないようだった。
 それでこそIDOLiSH7! アイドルの中のアイドル!
 だがしかし那由多、おまえは駄目だ。なんて話題をこの二人に振るんだ!
 出来心で一織くんの二次創作を検索したことのある俺は、もちろんこの話の元ネタを知っている。ちょっとセクシャルな方向に派生していくのが鉄板なのも知っている。
 だからこそ、まさかそんなことはあるまいと思いつつ、いろいろ心配になった。
 まだ夜の二十二時前なのに! それより何より二人とも未成年なのに! こういうのは大和くんしか都合がつかなくてゲストに千さんが来ちゃったしてきた伝説の回の再来などでやるべきである!
「うーん、なんだろ。部屋の中になんもないんだよな?」
「という設定ですね。ただし何らかの条件を満たせば外界への扉が開くと」
 俺の心配などよそに、清純な二人は真剣に討論を始めた。
 ハラハラする。別に何もいやらしいことなど匂わせていないのに、なぜかとてもハラハラする!
 どんなところに着地するんだこのコーナー!?
「何か思いつきます?」
「んー」
 環くんが少し考えるように呻いてから、ぱちんと指を鳴らした。
「相撲とか?」
 なんか! なんか当たらずも遠からず!?
 環くんの回答に思わずラビッターを見てみたところ、相撲が急上昇ワードになっていた。みんな考えることは同じである。
「私とあなたが? 相撲を取るんですか?」
「取ってみる? いおりん相撲できる?」
「舐めないでください。見せて差し上げましょう、わたしの最速猫騙しからの上手投げ」
「なんでだよ! 正面から来いよ!」
「あなたとまともに組み合ったら勝てないので」
「えー、こないだ勝ったじゃん」
 ん?
「そうですね」
 んん?
「こないだ雨で暇だったから二人でプロレス技の練習しててさあ」
 なんで!?
「そしたらちょっと油断した隙にいおりんにちょーきれいな卍固め決められてさあ」
「あれ、芸術的でしたよね」
「通りがかりのナギっちが痛みに泣き喚くオレを宥めながら写真撮るくらいにはな」
「あなた体硬いんですよ」
「そういう問題じゃねーし! しかもその写真のいおりん、目線バチバチのすげえ決め顔してんの! アー写に使えそうなレベルのやつ! もーほんと鬼。悪魔。閻魔大王」
「そこまで言います?」
 あはは、と珍しく一織くんが声をあげて笑った。かわいい。じゃなくて。その写真いくら出せば見れますか。じゃなくて。
 ……仲良すぎでは!? なになになに、暇だと二人でプロレスしちゃうの!? 助けて幸せ眩暈するもう俺処理落ちしそう!
「でも、相撲だとちょっと普通すぎませんか?」
「ふつう?」
「なんというか、相撲なんて別になんてことないチャレンジでしょう。もう少しハードルが高いというか、多少我慢とか努力とかするようなものでないと、閉じ込めた意味がないのでは?」
「あーなるほど」
 いやいやいやいや、そう、そうなんですけどね!?
 推しの察しの良さが今回ばかりは恨めしい。ちなみに今のラビッターのトレンドワードは卍固めである。
「じゃあなんだろ。ちょっと恥ずかしいってことで、兎ダンス?」
「それだってやれと言われればやれますが」
「だよなー」
 やれ! やってくれ! 俺の明日のために! むしろ世界平和のために!!
「んんんー、あ」
「思いつきました?」
「お姫様抱っこ!」
「日常の範囲では」
「違う、逆! いおりんがオレをお姫様抱っこすんの」
 ねえ、聞き捨てならないんですが、きみたちなんなの? いつも何してるの!? 日常とはなにか!?
「確かにそれはなかなか肉体的な負荷が高いですね」
「でもやれなくはなさそうだし」
「まあ確かに、そういう方向かな」
「あとはあ、ほっぺにちゅうとか」
 ウワァァァ!
 唐突に環くんが爆弾発言をかまし、俺は一人狼狽えた。な、な、な、な、なんてことだ! 自らそんな、そんなことを提案してしまうのか、きみは!
「えええ……」
「そんな嫌そうな顔すんなし!」
「えええ……」
「二度言うな!」
「だってそれってまんま先日の二階堂駄々っ子事件じゃないですか」
「バレた?」
 わは、と環くんが大きく笑う。
「一昨日だっけ? 酔っ払ったヤマさんがオレらに今日くらい優しくしてくれよーってめちゃくちゃ絡んできてさあ」
 えっ、ちょっ、なに!?
 予想外のカウンターに俺は思わずアルミ缶を握りつぶした。ただし中身はほぼ空だったので被害はない。
 どういうことなの最年長リーダー! 酔っていたとはいえ一般企業だったら普通にレッドカードですが!?
「あのひと、絵に描いたような駄々をこねましたよね」
「床を転がってねだってたな」
 なにがそこまで彼を追い詰めたんだ。むしろ冷静になって俺はとりあえず着席した。大和くん、仕事大変なのかな。この間出てたドラマもエキセントリックな役柄だったもんな。
「もうさ、うるさくて仕方ないからいおりんと二人がかりで押さえつけてほっぺにちゅうしてやったの」
「私たちの半分は優しさでできていますからね」
 待って待って待って!
 お願いだから待って!
 新たな爆弾の投下に再度狼狽する。ビール一本じゃ足りなかった。素面で聞いていいトークではない。
 ねえつまり、一織くんと環くんにとって優しくするイコール、キスになるの? どこで覚えてきたの、そんな、そんな色男仕草!
「なのに翌日何も覚えてなかったんですよ。腹が立って六弥さんが撮った動画を見せたらむしろ被害者みたいな顔をしたので、先ほど話題になったプロレス技がここで光りました」
「ツープラトン式な」
「なかなかの成果を発揮できましたよね」
 わんぱくすぎィー! キスはさておき二人がかりで大和くんに飛び掛かる様を想像して悶えた。いい。とてもいい。大和くんには申し訳ないけどいい!
「なんかあっかなーって考えたんだけどさあ、まあ気は進まないけどやれなくはなかったの、最近だとあれくらいだったから」
「ふうん、気は進まないんですね」
「どーしてそこ拾うんだよ!」
「おもしろくないなと思って」
「先に嫌な顔したのそっちだろ!」
「それとこれとは別です」
「いっしょ! オレ傷ついたし!」
 駄目だ。呼吸を忘れる。なんだこの会話。なんだこの二人。仲良しの度合いが俺の常識を超えてる。
 こんなもんだったっけ? ねえ、この二人ってこんなにちょっと匂わせるっていうか、思わせぶりな会話してたっけ!?
 息の整わない俺を置き去りに、一織くんと環くんはスマホの向こうでキャッキャと少し本題から逸れた会話を楽しんでいる。その自由奔放さも愛おしいが、おじさんはもうそろそろ何かが限界に達しそうです。
「あ、そろそろ時間ですね」
 神回というワードがトレンド一位を取った瞬間、一織くんがハッとしたようにそう言った。
「まじ? なんかあんまりおもしれーこと言えなかったなー」
 いやいやいやいや、そこは心配しなくていいよ、環くん! ファンはすべからく大満足です!
「答えどーする?」
「プロレスにしときます?」
「ちゅうじゃなく?」
「それだと一瞬で終わるじゃないですか。撮れ高が不安です」
「撮られてんの!?」
「アイドルなんで」
 涼しい声で当然みたいなプロフェッショナル魂溢れる回答をしてくる推し、最高です。でも多分これ撮られてたらできないようなことをする部屋です。
「まあ、プロレスのが難易度高いか」
「そう思います。あなたと私なら」
「んじゃー、答えはプロレス! あ、ふつーのやつな」
「はいそこ、余計なこと言わない。私たちのプロレスは友愛的なキスシーンよりも見応えがあると思いますよ。では、最後にこの曲で今週はお別れです」
「IDOLiSH7で、NAGISA Night Temperture!」
 …………エッ?
 あまりにもナチュラルに幕引きまで進行していったのでつい聞き入ってしまったが、何か、何かとんでもない爆弾をあの子たちばら撒いていかなかった?
「あなたと私?」
 思わず声に出た。一織くんなんでわざわざそこ強調した?
「ふつーのプロレス?」
 これも思わず声に出した。環くんなんで注釈付けた?
 えーっとつまり、ちゅうはたいした我慢や努力のいらない行為で、むしろプロレスのほうが頑張らねばならないもので、ただし彼らには「ふつーの」プロレスと「ふつーじゃない」プロレスがあると。
 そこまで思い至って俺はとうとう正気を失くした。いや失くすだろうこんなもん!
「ワー!!」
 隣から苦情が来そうな叫び声を上げ、スマホに飛びつく。
 なんなんだ、なんなんだ、この推理から導かれる真実はなんなんだ!? 教えて名探偵!
 そして彼らの楽曲の中でも一、二を争うキュートでチャーミングなラブソングの流れる中、俺は爆速で盛り上がるラビッターのタイムラインを猛然と泳ぎ渡った。
 あの二人が今日のお題についてどこまでわかっていたのか狙っていたのか、そんなこと、ファンにはわからない。わからないけれども、まんまとみんな、彼らの掌で踊り狂っている。むしろ踊らされていることそのものを楽しんでいる。
 この後夜祭のような馬鹿騒ぎよ。顔も知らない誰かの叫びが俺を頷かせ、高揚させ、没頭させる。
 アイドルってすごい。こんなにも人を幸せにするなんてすごい!
 時間を忘れてスマホをスクロールし続けながら俺はひとつの決意を固めた。
 よし、明日、会社に二番目にお気に入りのアクスタを持っていこう。ファンとして次のステージに上がるんだ。新しい扉を開くんだ。
 他人の目がなんだ。こんなにも俺の生きる糧となってくれている彼らを目一杯応援して何が悪い。俺は胸を張ってIDOLiSH7の和泉一織くん(17)のファンだと言ってのける。
 一織くん、どこまでも着いていくからね! だからナギくん、大和くんにダブルドロップキックを決める高校生組のVTRを早く商品化するよう事務所に掛け合ってください! 三万円までなら出します!

×

F04の作者は誰?

投票状況を見る

Loading ... Loading ...