D04 かげろう

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 それは遠い昔。
 もう、匂いも声も忘れてしまいそうなぐらい、遠い記憶。
 母の腕の中で、環は耳を覆われている。柔らかな母の両手越しに、怒鳴り声が聞こえている。
 (きえちゃえ)
 環は小さな眉をしかめた。
 扉の向こうから聞こえるのは、酒をあおり喚き立てる父の声だ。
「大丈夫よ、大丈夫。たあくんも、赤ちゃんも大丈夫よ。お母さんが全力で守ってあげるからね」
 母は環を毛布に包みながら、優しい手つきで頭を撫でし、また耳を覆った。
 環は知っている。怒鳴り散らしている父親は、次に母と自分を殴りにくることを。
 母の大きなお腹に手を当てた。
 環が母と話しかけると、母の大きなお腹はたまにゆらりと揺れる。小さな小さなあしの形が、ゆったりとしたワンピースを着た母のお腹に浮かんだ。
「お兄ちゃんに、返事しているのね」
 母は、柔らかく微笑んだ。その瞳の奥に、穏やかな海のような拡がりを見る。ザザァと引いては寄せる波。
「……かあちゃん、大丈夫だよ。とうちゃんがこの部屋に来たら、俺がやっつけるから」
 母の腕の中から、強い決意を込めてそう呟く息子を、あの頃の母は、どんな気持ちで見つめていたのだろう。
 母は柔らかな瞳を少しだけ見開き、ゆっくり微笑んだ。
「たあくんは、頑張らなくていいのよ。頑張るのは、大人の仕事。かあちゃんの仕事だから」
 それより、と母は話題を変えた。
「ねぇ、この子の名前、何がいいかなあ? たあくんと同じように、星空を巡るような、そんな名前がいいわね」
 母が語る星座の話が、環は好きだった。
――かあちゃん、俺いつか宇宙に行きたいな。かあちゃんも一緒にいこうね。
 そう言って、星が降る夜空を眺めたとき、母は環の小さな手を握りながら軽やかに笑った。
 ――素敵ね。でも、実は、たあくんもかあちゃんも、もう宇宙にいるのよ。
 そう、母は言った。
 環の手を力強く握りしめ、母も同じように、広がる夜空をみあげていた。
 ――地球も、宇宙のなかにあるの。見上げるあの空の先には、数えきれないほどの星があるの。果てなく、どこまでも、遠くに。
 幼い環には、母の言うことが、全て理解できたわけではなかった。それでも、母の柔らかな眼差しにうつる空は、どこまでも広いのだろうと思った。
 ――でも、いいわね。いつかかあちゃんも、たあくんと宇宙に行きたいな。
 そう言っていた母は、環の願いより遥かに早く、空に旅立った。
 (一緒に行こうって言ったのに)
 環は膝を抱え、母が環を包んでいた毛布に包まれ、眠った。
 
 扉の向こうに、くぐもった音が聞こえる。
「また、来ていたそうよ」
「接近禁止がでていても、警察も二十四時間は見張れないものね」
 母が亡くなり、環は施設で暮らすようになった。
 施設には、飢えも、父の暴力もない。
 しかし、母も、ちいさな妹も、いなかった。
 代わりに、同じように周りの大人の暴力から逃げ出してきた、子ども達がいた。
 その日、環は、幼い子供達が寝静まったあと、こっそりと階下へ降りてきていた。園長先生の話を盗み聴きするためだ。
 昼間に園庭で遊んでいると、先生たちが子供達に舎内に戻るように呼びに来た。カーテンがしめられ、子供達は隠れんぼをして遊んだ。
 園長たちの明るい笑顔が、少しだけひきつっていたことに環は気付いていた。
 (また親父がうろついていたのかもしれない)。
 そう環は思った。
 環の父は、環への暴力により、裁判所から接近禁止の命令が出ている。園舎の周りを彷徨いては、警察に連れてかれ、またしばらくすると彷徨きはじめる。
 父は別に、環に会いたいから、施設の近辺をうろつくわけではないことを、環は既に知っている。
 環が父の元に戻れば、父の受け取る金額が増えるからだ。福祉の名の元に支給されるそのお金は、世帯の人数に比例して増える、世帯の人数が減れば、減る。
 父の最後の怒鳴り声が、耳にこだまする。
 亡くなった母のことでもない、すぐに乳児院に保護された妹のことでもない。もちろん、環のことですらない。
「こいつが居なくなったら、俺の金はどうなるんだよ!?」
 そう叫んだ父の声を背に、環は緊急保護のため歩道に横付けされたワゴン車に乗り込んだ。
 環を保護しに来た警察と職員につかみかかっていた父の姿を思い出し、環は舌打ちする。
 (金が欲しいなら、働けよ)
 環は唇を噛み締めた。園長先生も、他の先生も、環を守りに駆け付ける警察官も、みんな忙しく働き、それでいて優しい。
 自分の父は酒を飲みギャンブルをし、母を殴り自分を殴っていた。
 (園長先生たちを困らせるなよ、馬鹿親父)
 環の中に、いつか自分も父のように他人を殴り、命を奪ってしまうのではないかという恐れが幾度も浮かぶ。
 環が暮らす園の、他の子供たちの親も、環の父親と同じか、またそれ以上に酷かった。
 忍び足で、みんなが眠る部屋に戻る。
 蹴飛ばされた布団をそれぞれの腹にかけてやる。
 今は安らかに眠る子供たちの昼間の顔を思い浮かべる。
「ここでは、お腹空かないの」
「痛くないよ」
「お布団で眠れるの」
 みんな、そう言う。
 それでもみんな、時折り、母や父に会いたいと泣いた。
 俺も、いつか誰かを殴るんだろうか。親父のように。
 環は先ほど聞き耳を立てた園長たちの話し声を耳から押し出すように目をきつく瞑り、寝た。

「環くん!?」
 自分もいつか誰かを傷つけるのかもしれない。そんな恐れを抱く環の前で、仲間は電動ドリルで扉をこじ開けに来た。
 環の目の前にある扉は、暴力に通じることはない。隠したいことが閉じ込められていることもない。
「おい、タマー。そろそろ起きないと遅刻するぞ」
 不器用なリーダーは、律儀に起こしにやってくる。
「Oh、タマキ!寝起きの今、このボタンを代わりに押してください!無欲の勝利にワタシは賭けます!!」
 髪色とおなじようにキラキラした光を目に宿し、スマホを持ってくる仲間もいる。
居間では、陸や一織が先に食卓を囲んでいるのだろう。テレビの音漏れに乗って、晴れやかなセンターの声が小さく聞こえる。
 環は寝床を抜け出し、扉を開けた。
 騒がしい声が一層大きくなる。
「四葉さん、おはようございます」
「環おはよー!この前のアルバム、まだTOP10に入ってるよ!」
「環、大盛りかー?」
 三月は、しゃもじを片手に環に声をかける。
「はよー、大盛り!みっきー、ありがと!ってかロングランヒット、すげーじゃん!!」
 持ち手が、窓から見える空と同じ色の箸を引き出しから取り出し、環は腰かけた。
「うまそー! いただきまぁっす!!」
 六月十日。
 天気予報は、夜まで晴れ。
 夏の星座にはまだ少しだけ早い、そんな一日が始まる。

 おわり

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