B02 もう大丈夫

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 銀色の引き手に触れようとして、動きが止まる。吐いた息を再度吸い込む。もう何回目だろうか。肩からズレてもいないランドセルを、天は背負い直す。HRが終わってすぐに病院へ直行し、トイレで持ち運び用の衣料用クリーナーを使って服全体のホコリをとったばかりの天の服は、放課後の校庭で走り回る同級生の服よりずっと綺麗だ。
 だってこの病室にいる彼にとって、ホコリは天敵だから。
 中からは物音一つしない。苦しそうな声が聞こえてこないことは嬉しい。けれど咳もできないほどに悪くなっていたら…と、毎日この引き戸を開ける瞬間は、いつも息を詰めてしまう。
 けれどあまり長く立っていても、顔馴染みの看護師に声をかけられるだけ。白い引き戸に手をかけるとあっさり開いた。その音でベッドに座っていた彼がこちらを向く。分厚いハードカバーを膝の上に乗せて、読書に耽っていたようだ。

「天にぃ、今日は早いね!」

 昨日見たよりも血色の良い顔が笑みを零す。さっきまで扉の前で躊躇っていた天の心を一気に晴らしてくれる笑顔に、天はほっと息をつく。

「うん、今日は5校時だったから。調子よさそうだね」
「点滴きいてきたみたい。あさってには4人部屋に移れるって!」
「…そっか」

 よかった。口には出さずに心の内で呟く。退院には遠くても、スタッフステーションから近い場所から離れられるということは、陸が順調に回復している証拠だ。

「天にぃあれ歌って!先週の放送から変わったオープニング」
「いいよ」
「…やっぱりオレも、一緒に歌っていい?一番、覚えたから」

 陸が一緒に歌いたいと言うのは珍しいことではない。体に障るといけないから、普段は陸が退屈しないように踊り続けていた。けれど今日の陸の瞳は夕陽よりも眩しくて、どうしてもダメとは言えない輝きを放っていた。

「…大きな声は出さないで。小さい声なら」
「うん!」
「もう大きいじゃない」
「だってうれしくて」

 そうして始まったソプラノの小さなハーモニーは、二番へ差し掛かる前に陸が咳き込んでしまって中断した。室内に響く苦しげな咳も、大きく上下する背中を撫でたときの熱さも、ずっとずっと覚えている。

「どうした天。開けないのか」

 怪訝そうな楽の声で気づく。記憶にあるものよりも真新しい白いドアを前に、ドアノブに手を伸ばしたまま動きを止めてしまっていた。

「…なんでもない」

 IDOLiSH7のいる楽屋へ挨拶に来ただけなのに、今朝見た夢が頭から離れない。軽く頭を振って返事をしても、楽の表情は晴れるどころかますます眉間にシワを寄せる。

「なんでもないってことはないだろう。七瀬と喧嘩でもしたか?」
「陸と喧嘩はしてない」
「まあまあ二人とも。ほら、俺たち海外ツアーから帰ってきたばかりでアイドリッシュセブンと一緒の仕事なんて半年ぶりだし、緊張してるんじゃないかな?」
「こいつがそんなタマかぁ?」
「しつこい、さっきから」
「天もそんなにピリピリしないで。陸くんと喧嘩したんじゃないなら、ほんとにどうしたのさ。珍しいじゃないか」
「…今朝、昔の夢を見て思い出しただけだよ。陸が長期入院してた頃のこと」
「えらく急だな」
「夢ってそんなものでしょう」
「久しぶりに日本に帰ってきて、古い記憶が真っ先に思い浮かんだのかな。俺も地元に帰るとよく思い出すよ」
「で、いつまでそうするつもりだ。さすがにリハまで突っ立ってるわけじゃないだろ」
「わかってるよ」
「じゃあ俺が開けようか?楽はお土産持ってるし」
「待って龍。ちゃんと、ボクが開けるから」

 今は発作の回数も減って、雪山に行ってスキーもできるし遊園地のジェットコースターにだって乗れる。そう、だから大丈夫。そう言い聞かせてドアノブに手をかけた時、自分よりも熱く大きい手のひらが二つ、重なった。

「俺が支えとく。これでいけるだろ?」
「俺も!こうやって手を組むと、ライブ前の円陣みたいでわくわくしてくるなあ」
「大の男が二人揃って何?」
「天がさっさと開けないからだろ。今更一人にさせる気はねえよ」
「天は自分だけの問題だと思ってるかもしれないけれど、ここまで一緒にやってきたんだ。俺たちにも背負わせてよ」
「…わかった」

 さっきよりも右手に力が入るのがわかる。力を込めた瞬間、回す間もなくドアが内側からあっけなく開いた。

「ほら!やっぱり天にぃだ!」

 大きく開かれたドアから覗くのは、自分と目を合わせて嬉しそうに笑う陸。あの頃、自分が開けるしかなかったドアを、今は陸自身の手でドアノブを握っている。

「りっくんすげー!当たった!エスパーじゃん!」
「さすがリクですね。ドアの外にいる人物を当てるなんて、双子のなせる技でしょうか」
「擦りガラス越しにデカい2つのシルエットに挟まれてる小柄な影がいたら、お兄さんでもわかるけどなー」
「ちょっと七瀬さん!廊下の外まで聞こえる声出さないでください」
「ごめん一織!だって天にぃと一緒の仕事なんて久しぶりで…あっ!」
「あーもー!陸がもっとボロ出す前に早く中入れって!どした?3人とも突っ立って」
「…天にぃ?」
「…ううん。失礼します」
「邪魔するぜ」
「お邪魔するね。みんな久しぶり!今日はよろしく」

 楽屋に入り込む直前、室内にいる彼らからは見えない位置で二人の手が肩に触れる。不思議と、足が軽くなった心地がする。

「陸くん、スタッフさんから温かいお茶もらってき…あ!TRIGGERのみなさん、お疲れ様です!海外ツアー、千秋楽の配信を拝見しまして…!」
「壮五くん、すぐにラビチャで感想送ってきてくれて嬉しかったよ!ありがとう」
「がっくんのそれ何?すっげーでかい袋」
「ロサンゼルスの土産だ。ここにいる全員分と事務所のスタッフ用まであるから、悪いが持ち帰ってもらえないか」
「毎回律儀だなあ八乙女は。はいはい、ちゃんと別になってるマネージャー分も渡しとくからさ」
「なんで中見る前からわかるんだ」

 そっと右手を撫でれば、二人の熱が包んでくれた手の甲がまだあたたかい。いつも通り賑やかな楽屋の中で「お茶ありがとうございます!」と湯気の立つ紙コップを受け取った陸が天に向き合う。

「天にぃ!今日もよろしくね。先週リリースされた新曲、天にぃにもスタジオで聴いてもらいたいんだ」

 あの頃から見ていた笑顔と変わらない。いや、昔と変わらないようで、力強くなった満面の笑みで迎えてくれる。もう一つ変わったことと言えば、この顔を心待ちにしている人が数えきれないくらいに増えたことだ。
 そうか。あの子はもう、自分でドアを開けられるんだね。

「こちらこそよろしく、陸。楽しみにしてる」

 今日やっと、上手く笑えた気がする。
 ドアを閉じても、室内は変わらず楽しげな空気に満ちていた。

 Fin

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