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ドアの音が、苦手だった。
負の感情がたっぷり含まれた大声が飛び交ったあと、わざとらしいくらい耳に残る音を立てて閉ざされるドア。そして、そのあとに訪れる張り詰めたような沈黙。
……ぱたん。
あれは、十龍之介の好きな人たちを断絶する音。話しあうことでひょっとしたら歩み寄れたかもしれない、でもその機会を永遠に失ったのちの虚ろに響く音だった。
龍之介ほどではないけれど、たぶん平均よりも大きくて広い、そしてTRIGGERを背負って立つ頼もしい背中を小さく丸めた楽の前で、天が眉尻を下げている。楽が小さくなっているのも、天がわかりやすい困り顔をしているのも、かなり珍しい。
そして龍之介はそんなふたりを眺めながら、わかりやすくその場を取り繕うような笑みを浮かべてしまっていた……――これは、自分がよくしている表情だと思うから、たぶんあまり珍しくはない。
3人は、高名な時代劇『三日月狼』の翻案、『クレセント・ウルフ』というミュージカルのオーデションを終えたところだ。結果を待っている今は、会場の隅っこに三人で集まっている。
距離を詰めるように身を寄せるようになったのは、TRIGGERと八乙女事務所が様々なスキャンダルにまみれてた後。TRIGGERがインディーズのアイドルグープになってから、なんとなくこの距離に落ちつくようになっている。互いをすぐ傍に感じられることに、安心しているのかもしれない。
とはいえ、今の楽はほっとするどころではないようだが。
天も龍之介も落ちこんでいるところを人に見せることを厭うが、楽はとりわけ肩肘の張り方に年季が入っている。だが、いつもぴんと背中を伸ばしているが、今はわかりやすくしおれていた。
いつもの楽であれば、片隅で龍之介や天の陰になっているとはいえ、人前でこんなにわかりやすく凹みはしないのだろうけれど……――この大一番で失敗した、という自覚があるゆえか。
実のところ、オーディションで一番結果が出せない可能性が高いのは、自分ではないかと龍之介は思っていた。TRIGGERを巡るスキャンダルで、一番評価を落としたのが自分であるという自覚もある。予想どおり、面接では非好意的にあしらわれたことも、気にならないはずがない。
ただ、楽が目に見えてしおれているから、弱音を吐きたい自分自身と向きあわずにすんでいた。
情けないなあ、と思う、弱音を吐きたくなると、弱かった過去の自分も矢継ぎ早に思いだしたり、悪い未来予想図ばかり描きたくなってしまうからよくない。そういう感情を呑みこむことに、龍之介は慣れているものの――。
「あのね、楽」
穏やかな声音で、天が楽へと話しかける。
「……おう」
応える楽の声は、いつもより一段と低く、そのくせ頼りなげな響きをまとっていた。
「やってしまったことは仕方ない。……君が怒るときは、いつも理由があることはボクもちゃんと知っている」
「天……」
背中を丸めていようとも、楽のほうが天よりも視線の位置は高い。それなのに、ようやく俯いていた顔を上げた楽は、なんとなく天相手に上目遣いになっているようにも見えた。まるで小さな子どもが信頼できる大人を見つけたときのように。
「もう新人じゃないんだから、わかりやすい圧迫面接の手口に引っかかるのはどうかと思うけどね」
「う……っ」
「……でも、まあ君らしい」
オーディション最後の面接で、わかりやすく楽は失敗したらしい。怒らせるつもりで先方が投げかけてきた質問に、ストレートに怒って反応したのだ。「面接が下手だ……」と凹んでいた楽の目元には力が入っていて、影ができていた。膨れあがった感情を堪えようとしているときに、彼の目元には今のように一筋の線が入る。
楽は人形のように精巧な面差しをしているが、いつもその双眸には熱い感情が煌めいている。そこが彼の魅力ではあるけれども、芸能界で生きる上では不利になることもあった。
龍之介にとって、楽の激情の煌めきは、眩しいばかりなのだけど。
龍之介は怒るのが苦手だ。今はとりわけ、TRIGGERと八乙女事務所に禍根を残したスキャンダルの原因になってしまった自覚もあり、どんな言葉を投げつけられても受け入れられる。だから、面接での煽り言葉にも感情的にはならなかった。感じた胸の痛みは呑みこんだ。
おそらく天も同じように煽られたはずだ。しかしTRIGGERの末っ子は、こと仕事に関してはそつない対応が上手い。相手が望む自分を、上手に演出することができる。
そんな天だから、かつて仕事でも感情を隠しきれない、理想の八乙女楽であろうとすることには真剣でも、場面によって演じ分けができない楽の態度によく腹を立てていた。
でも、今、楽を見つめる天の面差しに怒りはない。
「君が自分やTRIGGERの誇りのために怒っただけで、面接官の人たちにそれ以上の非礼をしていないというのなら、君の生一本さが先方に伝わる結果になったと思う。それなら、あとは判断を待っていようよ」
「……説教しねぇの?」
幼気な口調になった楽の言葉で、柔らかく和らいでいた天の目元が、ふいにすうっと引きあがる。
「ボクと口論していたときみたいに、席を立ったあとにわざと大きな音を立ててドアを閉めたなら、なってないって怒るかもね」
……ばたん。
龍之介の耳の傍で、音が響く。龍之介の背筋を寒くする音だ。
働けなくなった父を母が責めて、日に日に化粧が派手になっていく母を父が責めて。その挙句に、聞こえてきたあの音。
そして、かつては天と口論はじめた楽が、楽屋を出ていく前に立てていた音だ。
ぱたん。
終わりの音。人と人との対話を、つながりを、きっぱり断ち切ろうとする音。龍之介の居場所を、ここから先もずっとあると思っていた父と母の間に立つ資格を、奪った音――。
楽の瞳が、猫の子みたいに丸くなる。
「……してない、と思う」
「思う?」
「一方的に話を切り上げて、席は立っちまったけど……」
「うん、いつもの君だ」
「悪かったよ」
ため息をついた楽は、癖の強い髪を大きな手のひらでぐしゃぐしゃと掻き乱した。
「……八つ当たりみたいになってたら、みっともねぇな」
「自覚あるなら気を付けること。苛立ちまぎれに大きな声出したり、大きな音を立てたりする癖があると、なにかの拍子に出たりするからね」
「最近はやってねぇはずだけど……」
前はしてたな、と。楽はくちびるを軽く噛む。ばつが悪そうな顔で、彼は天を一瞥した。
楽はさっぱりした気性をしているし、筋の通らないことを嫌っている。けれども、彼女がほしいとか、親父のやり方が気に入らないとか言って、心からアイドルという仕事に打ち込んでる様子ではなかった頃は、少し不安定なところがあったと思う。煌めくような感情のほとばしりと上手くつきあえずに、周りを振り回している面もあった。
天とよくぶつかっていたのは、楽が彼の言動に「よくない」と思ってしまったときに、上手いこと自分の感情を天が受け取れるかたちで表すことができなかったせいだし、天は天で周りの理解をまったく求めていないところがあった。
だから、あの音が聞こえた。
ぱたん――と。
龍之介はというと、かつて両親の諍いをなすすべもなく覗き見することしかできなかった頃のように、おろおろとしているだけだった。沖縄に帰りたいな、と思うこともあった。
……けれども今、ここにいる。
それでよかったのだと、心から思っている。
ぱたんと閉ざされた扉が開かれることがあるのだと……――見せてもらえた。
天は、小さく笑った。
「君もちょっとは大人になったじゃない」
「俺はもとから、おまえより年上だ」
むっとしたように、楽は言う。でも、ちょっと口の端が上がっていた。
「いつまでもティーンみたいで可愛いよ」
小悪魔っぽい笑みを、天は浮かべている。語尾に、わざとらしいハートマークが飛んでいそうだ。
「クソガキ」
拗ねた口調で憎まれ口を叩きつつ、楽はとうとう笑いだした。天がわざと煽るような態度をとったことを、彼もわかっている。
……今の楽と天だから、わかりあえている。
「まあ、だいたい原因を作ってたのはボクだから、ボクはいいんだけどね」
「……龍には悪いことしちまってたよな。龍、ごめん」
思いがけない気づかいが滲んだ楽の言葉に、龍之介ははっとした。
楽は、じっと龍之介を見つめている。
「おまえ、大きい音を立てられたり、声を出されたりするの、好きじゃないだろ。……今更、だけど。本当に悪かった」
龍之介は、目を丸くする。
遠い昔の記憶の中から響いてくる、あの音の話を龍之介は楽や天にしたことがない。まさか、気づかれているとは思わなかった。
「本当に今更だよね」
天は小さく肩を竦める。
「嫌な想いをさせちゃった過去は変えられないけれど……。責任の一端はボクにもある。龍、ごめんなさい」
「あ、うん……。いや、別に俺は……」
龍之介は、小さく首を横に振る。一テンポ、リアクションまで空いてしまったのは驚いたからだ。
天と楽がよく喧嘩をしていて、龍之介がしょっちゅう沖縄に帰りたいと思っていたあの頃。ふたりが、龍之介の様子に気づいていたなんて、思ってもいなかった。ふたりとも、尊敬に足る人たちだということは知っていたけれど……――龍之介を気に掛けてくれるかどうかは、龍之介が彼らにとってもそういう存在であれたかどうかは、また別の話だから。
――見えてるところと見えていないところがあったんだな、俺も。
弱いところを見せたがらないのが、自分たちTRIGGERだ。今でもたぶん、3人とも、剥き出しの傷口を語るのは苦手だった。楽は父親を非難することはできても、母親については口数が少ない。祖父については饒舌なのに、だ。天は七瀬家や九条との親子関係について語らない。そして龍之介も、両親の諍いについてまだ詳しく語れないでいる。
でも、いつのまにか、わかりあえないかもしれないけれど思いやることはできる、そんな関係になっていた。
運命共同体だなんて、楽は言う。龍之介も、そう在りたいと願っている。きっと天も同じだ。
「沖縄に帰らないでいてくれて、ありがとう」
天の大きな瞳が、さざなみみたいに揺れている。TRIGGERをやっていく上で、必要なのはプロ意識で、情なんて必要がないと言っていたのが嘘みたいに。
「……おう、マジそれ。俺らを見捨てないでくれてありがとな」
楽の声には、熱が籠もっていた。ぶっきらぼうでも、いつだってちゃんと気持ちを伝えようとしてくれている。
「ふ、ふたりとも、なにを言い出すんだよ」
龍之介は慌てる。
嬉しいのに、泣きたいような気持ちになっていた。まだそのときじゃない。胸のつかえを吐き出すなら、このオーディションの結果が出たあとだ。そう、自分に言い聞かせていたのに。
……TRIGGERに、楽と天に、自分は必要とされている。彼らの隣にいていいのだと、許しを得られた気がしてしまっている。そんなふうに思っていいのは、せめてこのオーディションに受かって実力を示せてからだろうに。
楽にも天にもスキャンダルという傷をつけてしまったことを、龍之介自身が誰よりも許せないままでいるのだから――。
ふたりには言えるはずもないけれど、これは見せられない、聞かせられない胸のつかえだけど。誰に責められることはなくても、龍之介自身が誰よりも自分を責めていた。
そう気負って受けたオーディションだったけれど、楽も天も結果を出すより先に、龍之介が一番ほしい言葉をくれる。
龍之介はここに、TRIGGERにいてもいいのだと。
「前にも言ったけど……。ふたりは俺の生涯の宝だ。宝を捨てるなんて、ありえないだろ」
「龍~!」
楽が、龍之介に真正面から抱きついてくる。彼を受け止めてると、横からそっと天が袖を引いてくれた。
「……龍、ありがとう。君がボクたちを捨てなかったから、楽もボクも、出ていっても戻れる場所があったんだ。出ていくことなんてなかったんだって思えるようになるまで、時間がかかっちゃってごめんね」
喧嘩をして、楽がドアを開けて部屋を出ていく。あるいは、天が口をへの字にして背を向ける。かつて何度も、龍之介が見た光景……――でも、それで終わるような関係ではなかった。閉じたドアは開いて、飛びでていった誰かも戻ってこられる。以前できなかった話も、いつかできるようになる。そういう場があったから、と天は言ってくれているのだ。
喧嘩をしている彼らに、龍之介は気が利いた言葉をかけることすらできなかった。かつて、両親の喧嘩を眺めていたときのように。
でも、戻れる場所だと思ってもらえていたなら。本当にそういう場を龍之介の存在が作ることができていたのであれば、これほど嬉しいことはない。
楽を抱きしめかえし、もう片方の腕で天も抱き寄せる。他のオーディション参加者が、驚いたようにこちらを見ているけれど気にならなかった。宝物を抱きしめて、なにも悪いことはないだろう。
――ここにいよう。
龍之介は、深く息をつく。
オーディションの結果がどうなろうと、この先なにがあろうと、なかろうと、龍之介はここに、TRIGGERにいたい。そう改めて願う。いや、誓う。これは祈りではなく、意志だ。
居場所は、自分の手で作る。守る。そういう人間でありたい。
やがて聞こえてきたのは、ドアが開く音。オーディションの結果が出たという先触れを、龍之介は静かな気持ちで聞いていた。
終わり