B01 やさしさの箱

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「求めよ、さすれば開かれん」

 ふっふっふ、と鼻歌混じりに口にしながら、自分よりも背の高い大きな箱の扉を開けたのはこの寮の住人の一人だった。
 扉が開かれた瞬間、中からもれ出た光が青年の顔を照らし出す。青年は箱の中をのぞき込み、にんまりと笑った。
「おーあったあった、さすがミツ!」
 そう一人ごちると目当てのものを取り出し、青年は眼鏡の奥の目を嬉しそうに細めながら箱の扉を閉めた。

 箱――…冷蔵庫の扉を。

 アイナナ寮には冷蔵庫がある。業務用ではないものの、家庭用の中では容量がトップクラスのもので、見た目以上にたくさんのものが収納できる。寮に暮らす七人のアイドルたちの食生活を支える重要な存在だ。
 この寮にはたくさんの扉が存在するが、冷蔵庫の扉はもっとも開閉数が多い部類に入るだろう……と冷蔵庫は自負している。

 今扉を開けた青年が冷蔵庫から取り出していったのは、十分に冷やされたビールの缶とつまみの入ったタッパーである。彼は、冷蔵庫の中にあらゆる酒を詰め込んでいるが、自室にも小さな冷蔵庫を置いていて、そこにも酒とささやかなつまみが常備されていることを冷蔵庫は知っている。(この寮の電化製品たちはコンセントを通じて、互いがどの部屋のどこに配属されているかを把握している。)
 そんな彼ではあるが、夜遅くにキッチンに立ち、仕事をしながら高校に通う後輩の少年たちのために弁当を用意することもある。冷蔵庫の中をのぞき込み、弁当のおかずを思いついたときの青年の顔を見るのが冷蔵庫は好きである。

 もっとも冷蔵庫の扉を開けることが多いのは、この寮での食事当番をメインに引き受ける青年だ。朝一番に冷蔵庫の扉を開いて食材を確認し、その日の献立や買い物リストを実にスピーディーに組み立てる。冷蔵庫の中身を誰よりも把握しているのが、強い眼差しに明るい光を湛えた、この小柄な青年だった。手伝う仲間たちもいるとはいえ、仕事をしながら七人分の食事を管理するのは恐ろしく大変なことだろうと冷蔵庫だからこそ推察するのだが、青年がこの役割に不満や疲弊を見せたことはない。
 そんな彼がいちばん嬉しそうな顔をするのは、仲間のために作り置いたものが綺麗に無くなっているとき。寝る前に冷蔵庫の中を覗き、そして綺麗に洗い終えられた皿に目を移し、目を細めながら「あいつら今日もたくさん食ったな〜」と笑みをこぼすとき、冷蔵庫が思わずヴン…と唸り声を上げてしまうほど、その顔はあたたかくて慈しみに満ちている。

 冷蔵庫の中身を前に、攻防が繰り広げられることもある。
「環くん!! プリンは一日一個までと言っただろう!!」
「でもこれ、消費期限が今日までなんだって」
「どうして確認しなかったんだい?」
「確認したから、これから食べようとしてんじゃんか」
「僕が言いたいのは、前もってということだよ」
「次はちゃんと見る! でも、このプリンにはもう前もってとかねえもん……今日が最後なんだって」
「そうか……明日のないプリンなのか……でも……」
 怒る、というよりもひたすら困ったような表情を浮かべ、プリンを食べようとする少年との適切な対話を試みる青年は、冷蔵庫が今後の家電人生でも出会うことのなさそうな恐ろしく赤い刺激的な調味料を常備している人物である。もし万が一の事故が起こってその中身がわずかでも零れたら、冷蔵庫はどうなってしまうのだろうと想像するだけで震えるが、生真面目な青年は常に蓋をきっちりと閉めるし、調味料を横倒しにするようなこともしないため、冷蔵庫の恐れる事態は一度も起きていない。

 冷蔵庫が冷蔵庫だからこそ、見られる景色はほかにもある。
 この寮の住人の中でも極めて規則正しく、簡単に表情を崩すまいといつもパーフェクトな自己管理を心がけている少年が無意識に顔を綻ばせるのは、冷蔵庫の扉を開けた先に、彼の好物を見つけたときだ。例えばそれがかわいらしくデコレーションされた洋菓子のときであればなおさら。
 兄さん、と小さく呟いて、ケーキが切り分けられた皿を大切そうに取り出す様子を眺めることができるのは、冷蔵庫が冷蔵庫であるがゆえの特権の一つだ。加えて最近、彼が目元を緩ませるタイミングがもうひとつ増えた。

「なーなーいすみんとのプリクラ、ここに貼ろうぜ、いおりん」
「ちょっと! 冷蔵庫なんて目立ちすぎるじゃないですか」
「せっかく撮ったんだしさ、いつでも見れるとこに貼りてえじゃん」
「はあ。もう、仕方ないですね……」

 あのときすげなく折れたふりをした彼が、冷蔵庫の前に立つたび、あるいは冷蔵庫が視界に入るたびに、プリクラの貼られた扉を眺めてほんの少し微笑むのを冷蔵庫は知っている。もちろん彼の兄弟や仲間たちもみんな気づいていて、物言わぬ冷蔵庫のようにあたたかく見守っている。そんな彼らの顔も、冷蔵庫からはよく見えるのだった。

 扉はおおむね一人が開けるが、二人、あるいは三人が顔を突き合わせながら覗き込むこともある。

「なーいおりん、ポン酢ってどこ?」
「オレ、昨日使ったよ! 牛乳の横だよ!」
「そうなん? ん~……ねーけど」
「あれ? 麦茶の横だったかな」
「七瀬さん、顔を突っ込まないで。冷気を吸い込まないで」
「吸い込んでない! 息止めてる!」
「息止めてる人はそうやって話しませんよ!」
「お~あった! ポン酢、ドレッシングに負けて倒れてた。今助けてやっからな~」
「お前ら~! 冷蔵庫を開けるときの約束は!?」
「五秒で閉める! あ~待って待って、みっきーまじ今は五秒無理!!」

 とにもかくにも、冷蔵庫を取り囲む世界は日々賑やかである。

 しかし、アイナナ寮のダイニングと続くリビングで繰り広げられる、ときに騒がしくあたたかな何気ない日常を冷蔵庫が知っているということは、彼らが気落ちしたり、やるせない悲しみを抱えた姿をも知っているということでもある。
 その日、表情を曇らせて寮に戻ってきたのは、空色の髪の少年だった。
「ただーいま~って今日誰もいねーんだった」
 冷蔵庫から見ても、彼はひどく落ち込んでいた。仕事か、あるいは学校か。それとも別の要因か。
「みっきーの作ってくれた夕飯……食う気しねえ……みっきーーごめん……」
 しょんぼりと目を伏せながら、でも王様プリンなら……と少年は呟く。それなら食べられるかも。少しだけ、元気が出るかも。
 けれど、冷蔵庫の扉を開けた少年は目を瞬かせてがっくりと肩を落とした。
「……あ~……最後の一個、昨日食っちまったの忘れてた……」
 少年は項垂れたまま、もう一深いため息を吐き、結局冷蔵庫から何を取り出すこともなく扉を閉じた。そうして、肩を落としながらトボトボと自分の部屋がある方へ去って行く。
 その後ろ姿をやるせなく見つめながら、今彼が笑顔になれるものを差し出せないことに、冷蔵庫は嘆息して冷気を吐き出した。
 だが、冷蔵庫が胸を痛めたこの事実に、この場所を共有する彼らが気づかないはずがないのだった。
 そして、冷蔵庫にはできないことが彼らにはできるのだった。

 少年が部屋に引きこもってしばらくしたあと、帰宅した住人の一人が冷蔵庫の扉を開けた。彼は、自分が作ったものがそのまま残されているのを見て、眉を下げた。少年の部屋がある方へ顔を向け、ひどく胸を痛めた表情を浮かべると、気持ちを切り替えるように小さく笑う。
「明日、食べれるように残しとこうな。それから、もう一個何か作ってやろ。環の好きなやつ」
 そう言って、冷蔵庫からいくつかの食材を取り出した。
 
 翌日、もっとも早く仕事を終えてキッチンに入ってきた一人は、しばらくの間、冷蔵庫の前でおそろしく深刻な顔でいつまでも立ち尽くしていた。その険しい顔と言ったら、冷やすことが専門の冷蔵庫でさえ、設定以上の寒さに震え上がりそうなほどのものだった。
「いくら環くんのためとはいえ、私情を挟みすぎるだろうか。決めたルールを覆すなんて許されないよね……でもこれは緊急事態であって……そう、緊急事態なんだ」
 ブツブツと呟いたあとに何やら深い決断を下した青年は、冷蔵庫の扉を開けると右腕にぶら下げていた袋に入っていたものを取り出し、真剣な眼差しで冷蔵庫の中に並べていく。
 そして丁寧に扉を閉じると、よろしくね、と呟いた。

 そのすぐ後に並んで入ってきたのは、二人の少年だった。どちらもやはり手にビニル袋をぶら下げている。その量はかなり多い。
 二人はやはり並んで冷蔵庫を開けると、袋の中身を取り出して冷蔵庫の中に入れはじめた。何やら掛け合いを繰り広げながらも、袋から取り出すのが赤い髪の少年、冷蔵庫に収納するのが黒髪の少年と打ち合わせるでもなく綺麗に役割分担をしている。
 冷蔵庫を開きっぱなしにしないよう手際よく作業を進めながら、黒髪の少年がやれやれというようにため息を吐いた。
「まったく、みんな考えることが同じなんですから。ところで、これは全部七瀬さんが買ったんですか」
「こっちは天にぃからの差し入れ。さすが天にぃだよね! 一織こそ多くない?」
「私のは、その、こっちは亥清さんからです。ŹOOĻの皆さんからだそうですよ。まったく、いろんな人を心配させるんだから」
「でも、おかげでこうやってみんなで環のことを心配できるよ。それっていいことだろ」
「そう、かもしれませんね」
 そこにやってきたのはすらりと背の高い金髪の少年だった。少年もやはり同じくビニル袋を下げている。中に何が入っているのかは言うまでもない。少年は二人の姿を見ただけで全てを察したのか、目を輝かせて叫んだ。
「OH、リク! イオリも! 二人とも奇遇ですね? いえむしろこれは必然というべきものでしょう!」
 そう口にしながら冷蔵庫の中を覗き見ると、「やはり!」と少年は綺麗な顔にはしゃいだ笑みを浮かべる。仲間たちを誰よりも広く深い心で愛する少年のその表情は、これから起こることへの喜びと期待に満ちている。
「そうだね! えへへ、はやく気づかないかなあ」
「YES! 楽しみです!」
「それにしても入りますか? これ全部」
「Hmm……たしかに難しいかもしれません……」
「行けるんじゃない? えいっ」
「やめてください! あなたは触らないで!」
「ミツキの助けが欲しいですが、ひとまずワタシたちでどうにかしてみましょう……」
「ねえ、お兄さんの分、入れる場所ありそう?」
「あ、大和さん! お帰りなさい!」
「おかえりなさい、二階堂さん。ちょうど良かったです。二階堂さんのお酒を出しましょう」
「そんな感じ!? あ、はい。出します」
「OH! ナイスアイデアです!!」

 そうこうして賑やかな気配が去ったのち、最後に冷蔵庫の前に立った青年は、冷蔵庫の中を開けるやオレンジ色の大きな瞳をぱちくりとさせ、それから大きく口を開けて笑った。
「ったく、仕方ねえなあ」
 そうしてしばらくガサゴソと冷蔵庫の棚にあるものを移動させると、最後の最後に自分が手にしていたものをそっと置き、扉を閉じたのだった。

 それぞれが部屋に戻り、それからもうしばらくして、この寮に住む最後の住人が戻ってきた。
 ダイニングに足を踏み入れ、ぐるりと室内を見回してゆっくり目を瞬かせる。
「あれ、みんないねえの……?」
 反応のない空間に、少年は心細げな表情を浮かべた。
 静かに音を立てているのは、いつものように冷蔵庫だけ。しかし、冷蔵庫は自分の抱えている中身が普段とは違うことを知っている。もっとも、当然そんな事情など知らない少年は、「とりあえずおやつ……はあとでいっか」と口にしてキッチンから去ろうとした。
 冷蔵庫は、口があれば、声が出せれば、大声で叫びたい気持ちだった。でも、そんなことはできないから、代わりに音を立てた。
 突如、ガラガラッと冷蔵庫から響いた音に「うおっ?」と少年が声を上げる。
「ビビった~……氷が出来る音かあ……そういえば喉渇いたな」
 少年はそう呟き、冷蔵庫に近づいてくると扉に手をかけた。
 はやく、はやくと胸を高鳴らせるようにコンプレッサーを震わせながら、冷蔵庫は扉が開かれる瞬間を切望した。
 今、冷蔵庫の中には、ギチギチに隙間なくあるものが詰められている。それもほぼまったく同じものが。
 それは、少年を思う仲間たちの感情から生まれた、やさしさそのものだった。
 そう。冷蔵庫の中は、いつだって彼らから生み出されるたくさんのしあわせとやさしさが詰まっていた。空になっても、すぐにたくさんのやさしさでいっぱいになって、彼らを生かす糧となってきた。
 冷蔵庫は、彼らが日々を生きるための糧、そこに伴うやさしさを守るために存在した。そう、今も。
 だから、はやく開いてごらん、と冷蔵庫は願う。
 扉を開けて、冷蔵庫の中を見た瞬間、今もまだしょんぼりとしている君は、その目と口を大きなまんまるにして、それから輝くばかりの笑顔になって。
 そして大声を上げながら、彼の大好きな人たちのもとへ走っていくだろう。

「ヤマさあん!! みっきー!!! そーちゃん!!! りっくん!!! ナギっち!!! いおりん!!!!」

「冷蔵庫の中、すっげえ!!!!! なにあれ、どしたん?!」
「えへへ! 環、元気出た?」
「出た出た、すっげえ出た!!!!
「当然です。出してもらわないと困ります」
「OH! タマキの笑顔で私たちもハッピーです!!!」
「王様プリンがテトリスみたいになってんのめっちゃウケた」
「ミツキの芸術です!」
「そこは工夫って言ってくれよな」
「食うまで減らないテトリスじゃん、ちょーサイコー、せっかくだしみんなで食お~ぜ」
「いいのか? タマが全部食っていいんだぞ?」
「そりゃあそれもうれしいけどさ、今はみんなで食いてえの。そしたらもっともーっと美味くなるじゃん! だろ?」
「環くん…!!!」
「おお…壮五が感極まってぶっ倒れそうになってんな…よーしみんなで食うか!」
「やったー! オレもみんなで食べたい!」
「んんっ、たまにはいいでしょう」

 あたたかく賑やかな声が、再び冷蔵庫へと近づいてくる。冷蔵庫が知る日常。身のうちで大切に冷やしたそれを彼らが共に分け合う予感が、もうすぐ真実に変わる。

「あ、あっちにもお礼言わねーと」
「あっちって?」
「冷蔵庫さん!! いっぱい冷やしてくれてあんがとなー」
「確かに! 冷蔵庫さんいつもありがとう!!」
「冷蔵庫さんのこと、もっと大事にしないといけないな……」
「冷えたビールがないと、お兄さん頑張れないから」
「ワタシのここなコラボ商品もです!」
「お前ら、占有率は考えろ~」

 冷蔵庫は願っている。彼らが開く扉の先がいつもやさしいもの、うれしいもの、しあわせなものであるようにと。
 冷蔵庫が持つ扉も、そんな無数の中の一つであればいいと思っている。
 彼らがこの寮にいる限り、必要とされる限り、電化製品としての限界まで稼働し続けたいと思っている。

 願いを声にするかわり、冷蔵庫はヴン…と身体を震わせた。

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