A03 paint it blue

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「ただいま帰りました。」
 扉を開けて部屋に入るけれど、あのひとからの返事はない。リビングもキッチンも、もぬけの殻だ。水曜日の16時。この季節の夕方は街灯のいらない程度に明るいものだが、私たちの寮の居間の窓は小さいから、密度に乏しい暗さがただこちらを見返してくる。メンバー各人のスケジュールやそれぞれの行動パターンから考えるに、今日のこの時間には、あのひとはここに帰ってきているはずだった。そこに私も戻ってきてふたりになるから、少し仕事の話をしようと思っていたのだ。
 ここにいないのなら自室か、トイレか……。どちらも違う気がする。トイレの方の灯りはついていなかったし、帰ってきてから今まで、他の住人が居る気配を感じていない。とはいえ、あのひとも仕事は終わっているはずなのだ。そのうちに戻ってくるだろう。気を取り直して照明をつけ、鞄をいちどテーブルの足元に置く。椅子に腰をかけ、ノートと筆記用具と、まだ中身の残っている水筒を取り出す。息を長く細く吐き出してペンを握った。あのひとと話をする前に、要点を書き出しておこう。今日の仕事で知ったこともまとめておきたいし、プロデュース計画の修正が必要そうな箇所の検討もしたい。ノートの白いページを前にするだけでもすべきことはたくさんある。それなのに、どうしてもしかるべきところに意識が定まらない。
 予測通りにならなかったことが私の内心を殊の外かき乱していた。不注意で床にアラザンをばら撒いた時のように、思考が散って、跳ねていく。あのひとはどうして帰ってきていないのか。どうしてここに居ないのか。明日も忙しいのに寄り道でもしているのか。
 「どうして、私と一緒にいてくれないんですか。」
 声が聞こえた。八月の熱風に一瞬だけ枯れ葉の色が匂った時みたいな。私の声だ。うっかり口に出たことの胡乱さに驚く。呆れてしまう。私としたことがほんとうに取り乱している。溜息をついて椅子から立ち上がった。集中することもできないし、こんなことなら不安要素を取り除いていった方がいいだろう。そう判断して、あのひとが自室に居たりしないか確かめに行くことにした。

 あのひとの部屋の前に立って扉をノックする。右手の中指、第二関節で、三回。返事はないし、扉は開かない。名前を呼んでみる。それでもやっぱり反応は無い。不在か居眠りか、なにもわからなくて左耳をそっと扉に寄せた。何か物音でもしないかと思ったが、人の気配を感じさせるようなものは伝わってこない。やはり当ては外れたのだと、はっきり認めると決めて扉に背を向けた。けれど、足を一歩踏み出したところであることを思い出す。かつてメンバーの1人が、部屋で助けも呼べずに倒れていた。やはり目で見て確かめなければ。判断を更新して、俊敏な思考がなめらかにユーターンを決めた。しかし身体の方は振り落とされ、足がわずかにもつれた。逆さまの滝のように視界が巻き上がる。勢いよく前方に倒れこんで、たまらず目に入ったものに縋りついた。
 「ばたん」
 転びそうになった私が掴んだものはあのひとの部屋のドアノブだった。赤色のカーペットが目に飛び込んでくる。体重を預けたままのドアノブから手を離して起き上がり、彼の部屋を見渡した。あのひとは居ない。赤いカーテン、赤いギター、赤いベッド。赤い。私の脳内も赤く染まっていって、あの日の光景が再生される。Perfection Gimmickーーあのひとの涙をカメラが捉え、モニターがそれを拡大して、本来なら肉眼では見られない距離まで全てのひとの胸の中に降り注いだ。空間を塗り替えたサイリウムの赤いぎらつき。人々の心を拐っては喰らう、あのひとは怪物だとわかった日。あのひとのことをこの手に掴んでいられなくなる可能性をはっきりと見てしまった日。
 恐ろしかった。だって、アイドルの歌と踊りは、それを聴いて見ることは、誰かひとりのためのものじゃない。演者はステージで、ファンは客席で(つまり世界中どこであれかれらが私たちを見る場所で)それぞれに位置につき、互いを眼差す。あのひとはセンターにいて、その歌声が織る魔法の絨毯に私たちも飛び乗る。それが向こう側に届いて虹になる。だから私たちはアイドリッシュセブンなのだ。RESTART POiNTERを披露した時は逆だった。あのひとの言葉に耳を傾けていることを示す赤のサインも、曲が始まれば七色のきらめきへと姿を変えた。それがあるべき景色なのだ。なのに。赤は大気の一粒までも支配して、全く新しい、究極の仕組みとしてそこに生まれなおしたのだ。
 鮮烈な記憶の再演に立ち眩みがして眉間を揉む。大丈夫だ。あのひとの暴力的な訴求力の要因は突き止めたし、対策も考えた。あのひとを悲しみに沈ませないこと。その顔に憂いの影がさすようなことを極力取り除くこと。癒し。リラックス。安定。維持される幸福。それが肝要。そこまで考えて一息つくと、この部屋の赤が改めて目に付く。やっぱりあまりにも赤い。赤といえば精神を昂らせる効果があるんじゃなかったか。仕事を終えて貴重な休息の時間を過ごす場所だというのに、こんなにも赤くては日々の回復に差し障るのではないか。私の足元から苛立ちが湧いてくる。この部屋の模様替え。それはもしかしたら急務なのかもしれない。気分の落ち着く色を取り入れるべきだ。例えば青。それも淡い青色ではいけない。もっと深くて、沈んでいくような……。
 考え事に潜っていく私の顔の側面を、髪の毛が滑っていく感触がする。それははらりと落ちて、突然、視界にベールが掛かる。輝く星の背を守る夜空の紺色。そう、これだ。私の色。
 そこで思考は途切れた。はっとして顔を上げる。私はなにを考えているんだ。この部屋を、自分の色で覆い尽くしたいだなんて。目的はただの名分に成り下がって、合理性は地に堕ちている。私欲だ。顔に血が集まってくる。恥ずかしい。頭を振って髪の毛を払いのける。再び視界が開けると少し冷静になった。他人の部屋に勝手に入り込んで突っ立っている、この状況。非常にまずい。そもそもあのひとは仕事が終わっているはずで、いつ帰ってきてもおかしくないのだ。どうしよう。
 ……どうしよう。私のあのひとへの視線が、「客観」でも「一般」でもなかったら。あのひとへの感情が、ほんとうには、私の中だけにある、私にだけ光っている小さな一つきりの星なんだとしたら。
 「七瀬さん………」
 眩暈がする。部屋を出なければ。でも、私の世界を反転させるかもしれない、たった今私の中で開いた扉に吸い込まれそうな身体を引き留めたくて、しばらくは立ち尽くすことしかできなかった。

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