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とっくに夜も更けて丑三つ時だって越えたくらいの深夜に、玄関の鍵がゆっくりと開けられて人が入ってくる気配がした。この家の住人は僕と、先住人である幽霊と、モモの三人で、幽霊は家からは出ないし僕は布団の中で微睡んでいるので、わざわざ鍵を開けて入るのはモモしかいない。
今日はモモの単独の仕事の後に飲み会に顔を出すと言っていたので、何次会まで続いたのか分からない飲み会からようやく帰ってきたんだろう。おかえり、と言葉をかけたかったものの、中途半端な覚醒でまだ半分以上眠ってる僕は、声を出すことすらままならなかった。夢現で、モモの気配だけを意識で追っている。
古い狭いポロアパートだから、物音は全部筒抜けだ。僕の眠る部屋とモモのいる玄関は扉で仕切られていても、防音効果なんてない。だから、モモが何をしているかは、手に取るように分かった。
脱ぎ捨てた靴同士がぶつかる鈍い音、キッチンの蛇口を捻って水を出して手を洗って、あ、ついでに水飲んでるのかな。夜中の静けさも相俟って、勢いよく水を飲むモモが鳴らす喉の音さえ聞こえてきそうだ。
そして、荷物を置く音がするのと同時に、僕がいる部屋のドアではないドアが開けられて、閉められた――トイレだ。
『吐けばリセットできる』
自慢にもならないそんなことを語るようになってしまったモモを思い出して胸が苦しくなる。眠気をどうにか振り払って身体を起こした。
トイレからは、扉を閉められてから物音一つ聞こえてこない。声を掛けない方がいいか、という気持ちと心配する気持ちを天秤にかけて迷いながらも、這うようにしてトイレの前まで行った。恐る恐る、軽くノックして声をかける。
「モモ、大丈夫?」
扉越しに尋ねても返事はないし、中で動く様子もない。もう一度、今度は少し大きめの声で「モモ」と呼びかけると、呻き声のようなものが聞こえてきた。とりあえずは意識がありそうなことにほっとしつつ、繰り返し名前を呼ぶと、ようやくまともな言葉が返ってきた。
「ユキ……起こしちゃってゴメン。大丈夫だから、寝てて……」
扉越しというだけ以上にくぐもって聞こえたので、気分が悪くて俯いているのかもしれない。余計に心配で僕はトイレの前から離れられずにいた。
「モモ……僕はここにいるから、必要になったら呼んで」
季節が冬でなくて良かった。安普請のアパートの冷え込みはきつく、冬の夜にこんな真似――トイレの前で体育座りして、トイレから出てくるモモを待てば即座に風邪をひいただろうけれど、今の季節は昼の暑さも落ち着いて安いクッションフロアの床はひんやり冷たくて気持ちよさすらある。僕は、ずっとモモが出てくるのを待つつもりで、いつの間にか座ったまま船を漕ぎ始めていた。
*****
業界の飲み会で、たまたま家の近くを通る人のタクシーに同乗させてもらい、終電なんてとっくになくなった時間に帰宅したオレは寝ているであろうユキさんを起こさないように細心の注意を払って、トイレに籠城した。飲み過ぎたせいの気持ち悪さが残っていて、いつ吐いてしまってもいいように、というつもりだった。むしろ吐いてしまった方が翌日の二日酔いを防ぐにはいいかもしれない、という思いもあったけれど、いざトイレに入ればそれを上回る睡魔に襲われてしまった。
今日の飲み会は、最悪だった。ユキさんに繋げてもらいたがる様子の女の子にやたらと纏わりつかれて、でもオレみたいな駆け出しアイドルが邪険に扱えば週刊誌にあることないことを売られかねない。どうにか当たり障りない感じに躱したら、それはそれで別の男に変にやっかまれて機嫌を取るために飲み続けたらこの時間だし、このザマだ。
最悪な気分で何も考えられないでいると、名前を呼ばれた気がした。ユキさんの声に聞こえる。でも、眠くてたまらないし、この時間にユキさんが起きているわけない、と思っているともう一度声が聞こえた。
すぐそば、扉のすぐ向こうから聞こえてくるから、起こしてしまったのかもしれない。半ば呻きながら返事をしたら、繰り返し名前を呼ばれた。心配そうな声音に罪悪感を感じながら、どうにか答える。
そのあたりで、オレの意識は限界だった。
酩酊したまま、夢に取り込まれる。こういう時に見る夢は、決まって悪夢だ。夢の中で何度も繰り返された、あの日の事故、何度も訪ねたバンさんの家、悲痛なユキの叫び声。姉から涙と共にぶつけられた怒り。苦しくて辛くて、でも否定できない過去。
夢の中はどこに行っても逃げ場はない。いつからか見るようになった悪夢はオレの罪が間違いなくあることを、オレに何度も突きつける。
酷い脂汗と共にようやく覚醒したのは、帰宅したはずの時間から二時間くらい経った頃だった。若干頭が痛むのは、二日酔いの兆しだろう。今度こそちゃんと布団で寝ようと、用を足してトイレを出たオレはそこにいるはずのない人に驚いて思わず声を上げそうになった。
トイレのすぐ外には、体育座りしたまま眠るユキさんがいた。こんな状態でもその表情は涼やかで、静かに寝息を立てている。窓の外はうっすら明るく、もう夜明けが近いことを感じさせた。
そういえば、「ここにいるから」と言っていたような気がする。酔っ払って記憶が曖昧ながらも、それは夢の中の出来事ではなかったような気がした。
Re:valeのため、といいながらお酒を飲んで帰って、こんな風に心配をかけてしまうことが不甲斐ない。まだ酔いが残っていたせいか、涙腺が緩んでバカになっている。一度決壊した涙は、止めどなく流れ続けて頬を濡らした。
涙が止まったら、ユキさんを布団に連れて行って寝かせてあげよう。今起こしても、泣き顔なんて見せたら余計に心配させてしまう。
夜が終われば、朝が来る。
タイムリミットまで、また一つカウントダウンされる。
でも、その明日を頑張るために、今だけは流れる涙をそのままにしてやることにした。