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ホテルにチェックインすると、トウマはフロントで四つの鍵を渡された。古めかしい真鍮製の鍵で、それぞれ桜、向日葵、もみじ、雪の結晶の衣装が施されている。
フロントマン曰く、
「春、夏、秋の部屋はご自由にお使いいただけますが、冬の部屋だけは決して扉をお開きにならないでください。冬の部屋に入られますと、他の部屋には二度と出入りできなくなります」
とのことだった。
絨毯敷きの床を踏み締めて、エレベーターホールに向かった。幾基かあるエレベーターのうち、一基のドアが開いていたので、導かれるように乗り込んだ。内部にボタンの類はなかった。ひとりでにドアが閉まり、動き出す。
あくびひとつ分ほどの時間ののち、どこかの階に止まって、ドアが開いた。
降り立ったフロアには、長い廊下が伸びている。
トウマは廊下を歩いてみた。片側の壁には四つの扉が等間隔に並んでおり、扉には鍵と揃いの意匠が彫り込まれていた。
一番手前の扉には桜のマーク。春の部屋だ。その隣は夏の部屋、そのさらに隣は秋の部屋で、一番奥が冬の部屋だった。冬の部屋の先にもまだ廊下が続いていたが、途中で電灯が途絶えて真っ暗になり、その先はどこに続いているとも知れなかった。
来た道を引き返して、トウマは夏の部屋の前に行った。向日葵の意匠の鍵をまわして、扉を開けると、その向こうには常夏のビーチがあった。心地よく汗ばむ程度に日が差していて、エメラルドグリーンの波が穏やかに寄せては返している。
扉をくぐって砂浜を踏みしめる。粒が細かく、さらさらとした上質な砂だった。
波に乗りたい、と思うと、どこからかサーフボードが出てきて、トウマはいつの間にか水着姿になっていた。
しばらく夢中でサーフィンを楽しんだ。その部屋では夏のあらゆることを望むままに行えた。休みたいと思えば、パラソルの下にあるビーチチェアで休み、ココナッツジュースを飲むことができた。BBQがしたいと思えば、どこからかBBQセットが現れたし、弾いたこともないウクレレを流暢に弾きこなすこともできた。
満足のいくまで遊んだあと、トウマは夏の部屋を出て、今度は春の部屋に行ってみた。
春の部屋は百花繚乱だった。桜、梅、桃が咲き乱れ、薄紅色の雲のようだ。足先には雪割草や福寿草、芝桜、たんぽぽ、春の花という花がどこまでも広がっている。花々の間を小川が流れていて、小川沿って遊歩道がある。
ゆるやかなカーブのついた遊歩道を歩いていくと、やがて瀟洒な東屋が見えてきた。東屋では、柔らかい湯気を立てるコーヒーを片手に、虎於が優雅に読書をしていた。
虎於はトウマに気づくと、本をテーブルに伏せて片手をあげた。
「トウマか」
「トラ。俺、フロントで鍵を四つ渡されて……」
「ああ、俺も同じだ。誰か来るんじゃないかと思ってここで待ってた。他の部屋には行ったのか?」
「夏の部屋に行った。俺以外は誰もいなかったぜ」
虎於は春以外の部屋にはまだ入っていないという。二人は話し合い、秋の部屋に行ってみることにした。
秋の部屋は、燃え盛るように紅葉した木々が立ち並ぶ森林だった。そこで悠が落ち葉を拾って焚き火をしていた。
悠はトウマと肘をぶつけ合い、虎於とはハイファイブして、二人の合流をよろこんだ。
悠もやはりホテルにチェックインしたら、四つの鍵を渡された。最初に入った秋の部屋にそのままずっといたとのことだった。
「あとはミナだけだな」
「まだチェックインしてないのかな?」
トウマの言葉に、悠は首をひねった。
「まあ、じきに来るだろう」
虎於が鷹揚に首をすくめる。
三人は焚き火で焼き芋をしたり、森を散策して栗を拾ったりした。誰もここがどこのホテルなのか、なんの目的でチェックインしたのか覚えていなかったが、そのことを不思議に思う者はいなかった。ただ安息だけがあった。
時の流れは不規則で、空にはふと気が付くと満天の星が輝いていることもあれば、次の瞬間には茜色の夕暮れになりもした。ばらばらのシーンを継ぎ接ぎしてひとつの動画にしているみたいだった。
いくら待っても巳波は来なかった。
巳波はもうとっくにチェックインしていて、すれ違ってしまっているのかもしれない。元の通り、各部屋に一人ずつ──春の部屋に虎於、夏の部屋にトウマ、秋の部屋に悠が待機してみることにした。
それでも巳波は来なかった。
トウマは廊下で虎於と悠と落ち合った。顔を見合わせると、二人がトウマと同じことを確信しているのが分かった。きっと巳波は冬の部屋にいる。
無言のまま、三人の足が自然と一番奥の扉に向かう。先頭にはトウマが立った。
六花の意匠の鍵を差し込む前にトウマは確認した。
「ハルもトラもいいか? 冬の部屋に入ったら、もう他の部屋には入れなくなるらしいけど。なんなら、俺が一人で行っても……」
「バカ、それじゃ意味ないじゃん」
途中でトウマの言葉を遮って、悠が鼻で笑う。とらおも微笑んで深くうなずいた。
鍵穴に鍵を差し込んで、回す。重たい音をたてて鍵が開いた。
扉を開けると、何も見えなくなった。眩しさに顔をしかめる。目が慣れてくると、何も見えないのではなく、辺り一面が白いのだと分かった。
そこは雪に覆われた山腹だった。厚く雪化粧された針葉樹が、清潔な棘のように無数に立ち並んでいる。その木立の中に巳波はいた。
彼は雪かきをしていた。
「よいしょ」
と掛け声をして、大きなスコップで地面の雪を持ち上げ、ひとつのところに集めている。どれほどの間そうしていたのか、木立の開けたあたりに、巳波の腰よりも高い雪の小山が築かれていた。
トウマの肩から力が抜ける。脱力したことで、自分が緊張していたことに気づいた。心の片隅で、もっと感傷的な光景をうっすら想像していたのだ。
「あら、みなさんお揃いで」
巳波は三人の姿に気づくと、朗らかに挨拶した。丈の長いダウンコートに、スノーブーツ、ニット帽と耳当てと厚手の手袋といった格好で、もこもこに着ぶくれている。冷気にあたっているためか、運動のためか、頬の血色がいつもより良いくらいだった。
「もおー、巳波!」
悠がトウマの横を通り過ぎて駆けていった。その悠の姿も、いつのまにか冬の装いになっている。
巳波は足元の雪をスコップですくって、駆け寄ってくる悠にかけた。悠が悲鳴を上げると、悪ガキのようにけたけた笑った。
トウマと虎於も、悠に続いて巳波の元までぶらぶらと歩く。
トウマは知らぬ間に羽織っていたダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、ぎゅっ、ぎゅっと白い雪を踏み締め、一歩一歩を歩んだ。
二人が来ると、巳波は雪かきをやめ、スコップを地面に突き刺した。
「フロントで聞かなかったのか? 冬の部屋には入っちゃいけないって」
カシミアのコートを着ている虎於が訊ねる。
「聞きましたよ。だからこの部屋に来たんです。やってはいけないと言われることほど、やりたくなりませんか?」
巳波はけろりと答えた。
「だからって、雪かき……」
トウマはため息をこぼした。山ができるほどの雪かきをするために必要な労力を想像してうんざりした。
巳波は天気でも読むかのように空を見上げた。薄墨を塗ったような、翳った微笑を目元に浮かべている。
「せっかくだからここで春が来るのを待とうかと思ったんですけど」
冷たい風が吹き、積もった雪の表面にさざ波のような模様を描いた。
「ここに春は来ねえよ」
トウマは強い口調で言い切った。
「そうだよ。もう帰ろう」
「ああ、俺たちにはこんなところ、必要ないだろう?」
悠と虎於が促す。
「……そうですね。世間に私たちを見せつけてあげなくちゃ」
と言った巳波の瞳に、もう憂いはなかった。
少しのあいだ、四人はその場に佇み、互いの顔を見合った。ライブの直前、ステージの袖に控えているときのように。
それから、扉に向かって歩き出した。雪景色の中にぽつんとそれは佇んでいた。彼らはその扉を開けた。