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母と暮らしたあの大きな家を出てから、一人で暮らす小さな部屋の他に自分の居場所なんてどこにもないと思っていた。誰もいない、ひとりきり。それがこんなにも安心できることをあの大きな家を出て初めて知った。誰かにかわいそうだと思われることも、信じて裏切られるのも怖かった。
俺のことなんか誰も何も知らないくせに。同情も憐れみも憎しみも、自分に向けられる感情全てが恐ろしかった。もちろん初めからそうだったわけじゃない。何も知らなかった頃は両親からの愛情も、家に出入りする周りの大人の優しさも、何もかも疑うことはない素直な子どもだった。あの日、自分の立場を知るまでは。不義の子と蔑まれることも同情されることも許せずに、俺の利用価値を測るような大人に囲まれ、それに気づいた時から他人からの優しさは全て疑わしく思えて恐怖ですらあった。俺のことはとにかく放っておいてくれ。
学校でもバイト先でも他人との距離を測り、決して踏み込みすぎないように、こちらに踏み込まれないように、何事もほどほどに。そうやって自分を守ってきた。ひとりになりたいとずっとそう思っていた。実家を出てひとりで暮らし始めた時、もちろん不慣れな家事や細々とした日々の生活に戸惑うことはあった。それでも簡素なドアを開けて扉の内側へ入ればそこは自分だけの空間で、そこでは随分と楽に呼吸ができた。
それなのに。小さな事務所にスカウトされ、俺にむいてるとは思えないままアイドルになった。それもメンバーとの寮暮らしだなんて。それぞれに事情を抱えた者同士が集まって小さな共同体を作り生活をしていく中で、大小様々な摩擦や衝突もあった。ひとりに慣れてしまった自分にはやっぱり常に人の気配があるのは落ち着かなくて、いつでもここを出ていけるように荷物は最小限にしていた。なんとなく始めたアイドルという仕事にも成り行きでメンバーになった人間にも未練はなかった。
仕事はデビューするまでもデビューした後も何にも順風満帆とはいかなくて、グループ全体でもそれぞれ個人にもトラブルも挫折もあった。それをなんとかやり過ごしたり、解決したり、お互いに迷惑かけたりかけられたりしながらもなんとか折り合いをつけてやってきた。そうやっているうちにもう少しここにいても良いかもしれないと思うようになったのは幸運だったのかもしれない。
頑張ったってどうせ裏切られるのに、利用されるだけなのに、自分だって復讐のために利用してやるつもりだったのに、必死にやったって全部終わったら無駄なことばかりだろう、それなのに何故。いつだって俺のことを嘲っていたのは自分自身だった。
そんなどうしようもない俺を相手に諦めずにいてくれたのはあいつらだった。いつだって本気で笑ったり怒ったり、損得を考えずに向き合って、ぶつかって、寄り添ってくれたこいつらのためなら。ここには本気で何かを成し遂げようとするヤツばっかりで、そんなやつらを見ていたら自分も少し頑張ってもいい気がした。それを笑う人間はここにはいない。そう信じられる。今までだって向き合おうとしてくれた人間はいたのかもしれない。俺がわからなかった、気づかなかっただけ。それに気付けるようになったのだってあいつらのおかげだ。
ひとりでの仕事を終えて疲労感と充実感を抱えた体ですっかり見慣れたドアの前に立つ。七人分の笑顔を期待してドアノブに手をかけた。
ここが今の俺が帰る場所だ。