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「うわ、また!?」
着替えとメイクを終えて都内某テレビ局の楽屋で待機していると、向かいのパイプ椅子に座る環くんが突然叫んだ。大きな声に、反射的に肩がびくりと震える。ネットニュースをチェックする目を一度止めて顔を上げると、彼はスマホを睨んで難しい顔をしていた。
環くんがスマホ片手に何か叫ぶのは、日常茶飯事だ。彼の端末の中にいくつも入っているゲームのどれをプレイしているときも、よく声を上げる。それがパズルゲームでもレースゲームでも格闘ゲームでも、とにかくすぐ「わー!」とか「おー!」とかオーバーに騒ぐので、昔はよく「もう少し静かにしててね」と小言を言っていた。最近は楽屋も他のタレントと共同ということは滅多にないし、彼自身も場所をわきまえられるようになってきたから、気づけば注意する機会は減ったかもしれない。
環くんは机の上にスマホを置くと、唸りながら頭をガシガシと掻いていた。ゲームは環くんの方が上手だけれど、もし何か力になれるなら助けてあげたい。僕もスマートフォンを机上に伏せると、ごく軽く尋ねた。
「どうしたの?」
「しりとりやってんだけどー……。いおりんと、写真で」
返ってきた答えはかなり古典的でシンプルな遊びだった。聞けば、単独で名古屋ロケ中の一織くんと二人で、「今日スマホの写真で撮ったもの」だけでしりとりを続けているらしい。そういえば、今日はいつもより立ったり座ったり、楽屋の中を忙しなく動き回っていた気がする。どうやら、ずっとしりとりのお題を探していたらしい。
「いおりんズリぃの、めっちゃ『ち』ばっかり送ってくる」
「しりとりなんだから、ズルじゃないだろう? 一織くんすごいね」
同じ語末で攻めるのはしりとりの基本中の基本だ。写真で送る、という制限があってもなおその戦法を貫こうとするスタンスには素直に感心する。だけどあんまり一織くんだけを褒めて環くんに拗ねられても困るから、それ以上は控えて、見せてくれたラビチャのログを読んだ。思いの外長くラリーが続いている。
珍しく自撮りしたらしい一織くんの「口」。
今日の楽屋に置いてあった「チョコレート」。
この間陸くんにあげていた、封が開いている「トローチ」の箱。
環くんが凭れるパイプ椅子は「チェア」に変換。
しかし、それも名古屋城の写真に「愛知」と書いて切り抜けられてしまっていた。
それに負けじと環くんもこの部屋の写真を「地球」なんて無理して返したのに、五分と立たないうちに「植木鉢」が返ってきたところだった。「今日写真で撮れるもの」という制約がある以上使える言葉はかなり限られるはずだが、環くんもなかなか健闘していた。
「そーちゃん、『ち』なんかねえー?」
万策尽きた様子で机にぐでっと環くんが伸びる。その様からピザの上でよく伸びる「チーズ」を想起した。しかしここにないものを、スマホの写真で撮って送ることはできない。
「僕を使うのはズルじゃないの?」
劣勢の環くんは一織くんにズル、と謂れのないいちゃもんを付けたくせに、自分は堂々と他人を頼った。それが許されるだけの愛嬌が備わっているのが、環くんだった。つい流されそうになるのを耐えて聞き返す。力になってあげたい、と思って話しかけはしたものの、一織くんとの勝負事なら僕が口を出すのは野暮であるようにも思えた。他人が宿題をやっても環くんのためにはならないように、この勝負に僕が介入することが最善かはわからなかった。
「いーじゃん、ちょっとだけ! だって、この楽屋もう『ち』なくない?」
「うーん、せめてここが『千代田区』だったらよかったね……」
残念ながら今いるテレビ局があるのは「渋谷区」だ。確かに環くんの言う通り、僕が助力しても「ち」を出番までに見つけられるとは限らない。だからとりあえず次の一手番だけは一緒に探すことにした。
ち、ち、と頭の中で唱えながら、改めて楽屋の中を見渡す。真っ先に思い浮かんだ塩基の「チミン」は僕にも環くんにもあるが、写真には撮れないし、そもそも「ン」で終わってしまう。同じ理由で「チタン」もだめだ。せめて「チタンフレーム」の伊達眼鏡があればよかったけれど、今日は持ってきていない。持っていないと言えば、昨日トウマにもらった土産物の「チリソース」を鞄から出してしまったのも、間が悪かった。扇風機、鏡、机――と順繰りに部屋のものを見る。そしてアイボリーのドアへと顔を向けたところで、僕はそれを見つけた。
「あったよ! 『蝶番』!」
瞬間的に興奮して、つい環くんに負けないくらい大きな声が出た。その勢いのままパイプ椅子から立ち上がるとドアの方へ駆け寄って、足元から数センチ上で扉と枠を繋ぐ銀色の金具を指さした。
「ちょーつがい? 貝の仲間?」
環くんも遅れてスマホ片手にドアに近づいてきたけれど、案の定耳慣れない言葉のようだった。単語の切れ目すら違ってしまっているが、無理もない。環くんの台本にはいつも事前にルビを振るが、「蝶番」が出ていたら僕も真っ先にルビを振るだろう。百聞は一見に如かずだ、と僕は扉を内側に開いた。すると、枠と扉の間に銀色の羽が姿を現す。二枚の羽にはネジが四個ずつシンメトリーに締められていて、中央の軸にはピンが刺さっている。ごくスタンダードな形状だった。
「この留め具のこと、蝶番、っていうんだよ。貝じゃなくて、蝶々の羽」
「ほー……、『超すげえ貝』かと思った」
環くんは早速蝶番の写真を撮って、一織くんとのラビチャ窓へ貼りつけた。続いて、ちょうつがい、と流暢に打ち込む。予測の一番初めにはひらがな表記が現れて、「蝶番」はその次に表示されていた。環くんがこれ?と漢字の変換を確かめるのにOKを出すと、彼はそのままそれをタップした。
「あんがとそーちゃん!」
「どういたしまして。役に立てて良かった」
用が済んだので扉を閉めようとしたが、環くんがそれを遮った。僕に扉を押さえさせたまま改めて蝶番の前にしゃがみこんで、年季の入ったそれをまじまじと見つめる。彼は薄い鉄板の上にうっすら積もった埃を、指でなぞるようにして床に払い落とした。
「前にさあ、そーちゃん身体うっすいから動物なら蝶って答えたことあるけど。最近は、こんな感じかも」
環くんは随分懐かしい話を持ち出した。それはまだデビューして一年にもならない、「恋のかけら」をリリースした頃のアンケートの回答だ。いわゆる大喜利のようなものだと分かっていても、「身体うっすい」には少々プライドが傷ついたので、よく覚えている。
「こんな感じって?」
「なんつーんだっけ、こういうの……えーと、ゴウジョウ、じゃなくて……」
「……頑丈?」
ゴウジョウに似た響きで、蝶番の金属の羽にイメージが近い言葉ならばそれだろうか。あまり確信はないまま尋ねると、環くんは元気よく頷いた。
「それ!」
「そう? 筋トレの成果少しは出てるのかな……」
確信が持てなかったのは、「頑丈」と「最近はこんな感じ」のつながりが不明瞭だったからだ。良くも悪くも、僕の体形はデビュー期とそう変わらない。彼曰く「うっすい」身体はそのままだ。時間を見つけて筋トレをするようにはしているが、作曲にかかりきりになってしまうと、すぐに筋肉も体重も落ちてしまう。そういう意味で、最近の僕が特別頑丈になった自覚はない。
「んー、蝶だったら、扉に挟まったら粉々になっちゃうじゃん? でも最近のそーちゃんは、挟まってもガッて受け止められっし、こんなネジなんかばーんってスクリュードライバーで吹っ飛ばして、扉ぶっ壊して飛べそう」
最初こそ抽象的な印象をなんとか言葉にしようとゆっくり喋っていたようなのに、途中から徐々に面白がるようなトーンに変わっていった。以前寮の扉をスクリュードライバーでこじ開けたことを、彼はことあるごとに引っ張り出してきては大袈裟に非難したり怯えたりしていた。こうして軽口を叩かれたのは初めてで、不思議と悪い気はしなかった。「頑丈」は一般には褒め言葉のはずだけど、ニヤニヤと笑いながら僕を見上げる環くんは、悪戯をしたくてたまらない猫のような瞳をしていた。褒められている、というより、じゃれつかれている。
環くんの表現した僕は「頑丈」というより「不屈」で「自由」だった。潰れず、跳ね除け、空を舞う。僕がそう変われたのだとすれば、それは間違いなく環くんがいたからだ。環くんがいなければ、きっと僕の羽は鉄にはなれない。だから、僕は扉の上部を指さした。
「じゃあ、あっちは環くんね。ネジは僕が外してあげるから、一緒に飛んでよ」
蝶番は、ドアの上下に二つ付いていた。環くんが写真に撮らなかった上の方を指差して、勝手にそう決めた。
「しょうがねえなあ」
環くんが満足そうに目を細めて立ち上がると同時に、ラビチャの着信音が鳴った。予想通り一織くんからの返信で、環くんのスマートフォンには、少しだけ開いたドアが映っていた。僕らの楽屋の扉と同じように、蝶番が二つある。
『入口』
げー、と苦手な宿題を思い出した時みたいな悲鳴を上げた環くんは、けれどすぐに「あ」と気づいて、僕の右足に環くんの左足をくっつけた。今日の収録の衣装は、お揃いのスニーカーだった。
「蝶結び!」